会議でホワイトボード前で防人が説明中の所に事務の女性が入って来て、
「防人さん、八事日赤から電話なので至急事務まで来てください」
と言われ、???のまま下に降り、電話をとると、
「八事日赤産婦人科NICU担当の谷川です。朝お生まれになった娘さんの呼吸が停止しまして、急遽NICUに移動させて、現在、処置と共に原因究明をしている最中です。それから産婦人科の担当医師に今から代わるので電話を切らずにお待ちください。・・・・。産婦人科の室川です。奥様が妊娠高血圧症候群で血圧200以上となりまして、容態が不安定です。今から下げる処置をしようと思うのですがよろしいでしょうか」
2004年10月16日の夕方、防人は電話を握りしめたまま、下半身の筋力が抜け、その場にヘナヘナとへたり込みそうになる初めての感覚を覚えながら、呆然として、しかし、なんとか事務のデスクの傍らに立ち尽くしていた。
我々夫婦は1997年に結婚し、その後子宝に恵まれずに結婚生活を過ごしてきた。防人としては子供がそんなに好きではなかったし、子供がいない生活は逆に二人の生活を謳歌できるし、それぞれ個人の仕事や趣味の世界の深化などやることは沢山あり全く問題ないと思っていた。しかし、奥さんは違った。防人との間の子供を望んだし、育てていくことが夫婦の至上命題のように半ば脅迫的に思っていたようだ。以前、奥さんの友達の赤ちゃんを防人が抱っこしていた時の僕の顔が忘れられず、何としても我が子を抱っこしてもらいたいという思いを抱いているとも言っていた。そんなこんなで、我々夫婦はいつ果てるとも知れない不妊治療の世界にはまり込んでいったのだ。受精は割とすぐにするようなのだが、卵子が着床しない。稀に着床して分裂が始まっても途中で止まってしまう。ごく時たま、心拍が観測されいよいよ赤ちゃんの原型が形成され始めたと喜んだのもつかの間、数週間後には心拍停止してしまい流産となること数回。防人はまだ目も鼻も口もない心臓だけがピクピク動いている物体を赤ちゃんと想像することは出来なくて、流産と聞いてもその実感もない。だから、あまり悲しいとは思わない鈍感な感性を持ち合わせていたのだが、奥さんは違った。毎回その小さな命の始まりに仮の名前を付け、大事にしていたものだから流産の衝撃は肉体的なことはもちろんだが、精神的には相当激しく、不妊治療が進むにつれ精神が消耗していった。元旦の日は恐怖だった。友達から生まれた赤ちゃんがでかでかと載った幸せ絶頂です年賀状が届く。奥さんは見もせず脇に置き、僕は奥さんの追い詰められた日々の状況を目の当たりにしているものだから、「余計なはがきを送ってよこしやがって」と暗たんたる気持ちになる。また、時には知り合いの人から「あんた等、子供をつくらないのか?」というあまりに愚鈍な、極めて配慮の欠いた言葉が投げ掛けられる。その度に、奥さんの精神はかき乱され、家でしくしくと泣き、我が家の雰囲気も重く、暗いものとなることが多くなって行ったのだ。三回目の流産が起こった時、もうメンタル的に限界ではないかと思ったし、高額治療費の負担もあって「そろそろ二人の生活を大事にして、不妊治療を止めにしないか」と問いかけたときがあった。今振り返って、二人の子供を育てた(まだ、進行中だから”育てている”が正しいか)経験からその時のことを思い出すと、この時の防人の言葉に奥さんが従わず、その後も頑張り続けてくれたことにとても感謝しているのだが。その後も苦労の連続であったが、2004年の初め、ひとつの卵子が着床し、分裂し、心拍が確認され、それが止まらずに動き続け、どんどん成長し、奥さんに悪阻(つわり)が起こり始め、途中出血などの事態もあったが、八事日赤で夫の出産立ち合いのための講義にも参加し、沐浴教室にも参加し、そしてついに10月16日の午前中に防人立会いのもと、この世界に我が子(娘)が登場してきたのである。生れ出た娘を目の当たりにしても、まだ我が子であることを実感できないでいたのであるが(これは種をただまくだけの男の愚かさよ!)、兎に角、安堵感と共に自分も父親になったのだなあと言う表面的理解のまま職場に向かったのだった。

10月30日の水曜日、中山道(国道19号)をひたすら信州方向に向けてドライブする。車的には適度なカーブ、アップダウンがとても気持ち良い。

中山道から分かれて、梓川・上高地方面にステアリングを切る。木祖村の広場に、『木曽川の始発駅』とあった。なかなかうまいことを言うなあ!

落ち葉に埋もれ、所々朽ち果てた旧道をさきもりちゃんと共に走る。

奈川ダムの梓湖畔から乗鞍方面を眺める。山々は赤、黄色の紅葉で美しい。
電話のもとで立ち尽くす防人に我が社の女帝殿は「会議なんてどうでもいいから、至急日赤に行ってください」と半ば強引に職場を出され、自転車で汗まみれになって八事日赤のNICUに到着した。しばらくすると、担当の谷川医師が現れて、「呼吸は復活したのですが、原因は特定できていません。脳に異常があるか、心臓の異常か、何か風邪などの新生児感染症に罹患しているだけなのか、これら三つの可能性を視野に入れて検査しているところです。今は検査のため面会していただけませんが、それ以外の時は、御両親であれば24時間いつでも面会可能ですので、来てあげてください」と説明してくれた。その後職場に戻り、女帝殿に状況を報告して、仕事を済ませて22時頃に再びNICUを訪れた。荷物をロッカーに入れ、手をよく洗い、白衣を羽織り、帽子をつけてインターホンで名前を告げると、ドアが自動で開いて保育器が並べられたNICU病棟に入ることが出来た。看護師さんが親切に説明してくれて「人工呼吸器などの特別処置ができる二台のベッドが一番重篤な赤ちゃん、スタッフのデスクがある周囲が絶えず観察していないといけない状況の赤ちゃん、そこから離れるに従って症状が安定している赤ちゃんたちで、この部屋(入り口近く)は退院が近い赤ちゃん達がいるところなんですよ。娘さんはこちらです」と案内された保育器はスタッフデスクから離れた所であった。周囲は低体重の赤ちゃんばかりだったので、3200gで生まれた我が子はひときわ大きく、丸々太っているように見えて可愛く感じられた。ふと見上げると壁にはNICUの誓いなるものが掲げられていて、今でも覚えているものとして『私たちはいかなる時もあきらめずに、最善を尽くします』という項目があった。入院している赤ちゃんは500g以下で生まれた赤ちゃんも何人かいて、本当にこんな小さな命が大人に成れるのか半ば信じられなかったが、看護師さんの話では「現在(2004年当時)の技術では500g以下でも大丈夫なんですよ。しかし、これだけ小さいと網膜に問題が起こることが多くて、目が見えなくなる可能性が高いんです」ということだった。また、誕生してから数カ月以上入院している大きな赤ちゃんもいたのだが、NICUに居続けるということは何か重い病を患っているのだろう。ここは、赤ちゃん、医療従事者、両親の壮絶な戦いの場所であったのだ。このようなところに、防人も2004年10月16日以降毎日通うことになったのだ。NICUを後にして、自転車で誰もいない我が家に向かいながら、「娘の無呼吸の原因は?これからどうなるのだろう?このことを奥さんにどのタイミングで言えばよいのか?奥さんは大丈夫か?…」色々不安が襲ってくるのだった。

三才山(みさやま)峠を越えて、生島足島神社("いくしまたるしまじんじゃ"と読むらしい。日本の中央にある神社だとか)到着。ここまで来ると上田市街はすぐそこだ。

娘の通う大学の明治期の講堂(上田蚕糸専門学校講堂)。なんと、ここは『坂の上の雲』のロケ地で、秋山好古がドイツ陸軍参謀のメッケルから講義をうける陸軍大学校の講堂という設定で使われた場所なのだ。まことに小さな国が…。

繊維学部の至る所に桑の木が植えられている。繊維専門の学部としては日本で唯一らしい。
10月17日 NICUを訪れると、娘のいる場所はスタッフテーブルに近い場所に移動していた。呼吸状態悪く、白血球数、CRP(炎症を示す値)極めて高い。その後、奥さんのいる病棟に行くと、彼女は思いのほか元気そうだった。奥さんから「娘は元気か?」と聞かれたので「元気だったよ」と噓をついた。帰り際に再びNICUを訪れると、主治医の谷川先生は気管支挿管を決定したと告げられた。どんどん悪くなっていく娘を前に何もできない無力な父親。
10月18日 昨日の夜遅く、娘の肺が破れたらしい。NICUの中心部のベッドに寝かされて、人工呼吸器が装着されモニターの音が周囲に鳴り響いている。時たま甲高いシグナルが鳴るのだが、看護師さんたちは確認に来るが驚く様子はなく淡々と処置をこなしていく。愕然として我が子をみつめる防人(この時、防人は気胸を知らなかった。人間の肺が破れるなんて言うことはもはや末期的段階なのでは慌てふためいていたのである。これに対して周囲の医療従事者たちは「はいはいいつもの気胸ね」くらいの感じであったのだろうから、二者の間には相当の温度差があったはずだ)に近くにいた医師が淡々と娘の病状を説明してくれた。肺を膨らませるための菅が左側から挿入されている。人工呼吸器のため呼吸は楽そう。抗生剤の投与が効いたのか白血球数は減少するも、依然としてCRPの値は高い。
10月19日 CRPの値が減少してきた。投与し続けてきた二種類の抗生剤が効いてきたようだ。峠は越えてきたのかな。素人目にも元気になってきていることがわかる。看護師さんが口の中を綿棒でお掃除すると、それをオッパイと思ったのかチュウチュウと吸っていた。安心できたので、奥さんの病棟に行って事の次第を詳しく説明した。
10月20日 午後NICUに行ってみると、人工呼吸器が取り外されていた。両脇に看護師さん二人を従えて、吸い口をくわえさせてもらって、それをチュウチュウとふてぶてしくやっていた。もう安心だ。
10月21日 ほとんどの機械が外されていて、保育器にも入っていない。鼻には痰などを取り除くための菅が入っているのみ。NICUから産婦人科病棟を通った時、待合室ではおじいちゃんおばあちゃんなどの親戚が集まって、お母さんと生まれた赤ちゃんを取り囲んでワイワイガヤガヤと談笑していた。「うちの子はキトサンが多いらしいの」とお母さん。すると、おじいちゃんが「と言うことは頭が良い子なのだな。こりゃあ、将来は東大生だ。アハハッ」。その日の午後、区役所に出生届を提出に行った。
10月22日 夜遅くNICUに行く。娘は退院日が近い赤ちゃん達がいる場所に移されていた。体を拭こうとすると真っ赤になって怒る(泣く)ようだ。「元気ですよ」と看護師さん。ミルクも良く飲み、お腹が空くと大きな声で泣くので吸い口をテープで固定されてしまっていた。NICUを退出し、真っ暗な産婦人科病棟を歩いていくと、待合室に二人の人影が。一人は白衣を着ているので女医さんであるのだろう。もう一人の人は、NICUに他病院から緊急搬送されたて来た赤ちゃんのお父さんのようだ。彼は、泣きながら「妻に何と言えばよいのか…」と言葉を振り絞っていた。大病院の産婦人科病棟は、赤ちゃんの誕生を祝う明るい場所でもあるのだが、一方、低体重で生まれた、重篤な病を背負って生れ出でた赤ちゃん達の、出産で体調が悪化したお母さんたちの壮絶な戦いの場所でもあったのだ。
10月23日 NICUに寄るのが日課になった。とてもよく寝ていたので、抱っこするのは遠慮することに。お七夜なので命名の半紙を壁に張った。
10月24日 深夜にNICUに行く。娘は良く寝て、起きると吸い口をくわえて、泣いて、ミルクを飲んで、再び寝て。NICUを観察すると、スタッフの動きがいつになく慌ただしかった。「何かあるのですか?」と尋ねると「他病院で生まれた低体重の赤ちゃんが、今こちらに救急車で搬送中なのです。その子を迎え入れる準備を始めたのですよ」とのこと。防人がいては邪魔だと判断して、今日はすぐにNICUをお暇することに。暗い病棟を抜けて、外に出て、自転車置き場まで来ると、遠くの方から救急車のピーポーピーポーという音が微かに聞こえ出した。きっと、その救急車の中には明日に向かって必死に生きようとする赤ちゃんがいるのだ。そして、その命の灯を守り抜こうとする医療スタッフの懸命の努力が、赤ちゃんの無事を祈るご両親の切実な祈りが。自転車のカギを外しながら、年甲斐もなく涙の制御が効かなくなってしまった自分がいた。頑張れ赤ちゃん。
10月25日 明後日には退院のようだ。
10月26日 娘はお母さんの病室に移り、初めて一緒に寝たようだ。
10月27日 退院。今日から一カ月ほど、奥さんの実家にて母子ともに生活するようだ。NICU通いが続いていた防人だが、今日からは実家通いが続くことになる。

夕飯のディナーのために腹を減らしておくために、嬬恋浅間方面の湯ノ丸山に登山しようということになった。標高1700mの地蔵峠までひたすらさきもりちゃんが頑張って登山して、その後は、防人と娘が頑張って登山を引き継ぐ。しかし、今日は強風が吹き荒れ、めちゃくちゃ寒い。

この地蔵峠の所にあるのが、湯ノ丸スキー場。向うに見えるのは初級中級コースのゲレンデ。手前のゲレンデを歩き登って湯ノ丸山を目指す。強風が吹き荒れ、山のすぐ上は霧に隠れ、思いのほか厳しい登山になるかも。長袖は娘に貸したので、防人はタンクトップ短パン姿で登る。山をななめたらアカン!

ゲレンデ上部からはしばらくは水平なトレイルが続く。

途中からは急登になる。霧と横殴りの風、そして、時にみぞれが吹き付けてくる。

頂上(2101m)でのんびり景色を見ながら来来亭のカップ麺でも食べようと思っていたが、視界は効かないし、横殴りの風とヒョウが体温を急速に奪い去っていき、寒くて発狂しそうになったので、滞在時間20秒でさっさと下山開始。

湯ノ丸山の山頂は真冬並みだったが、さきもりちゃんと下山してくると、里はまだ秋真っ只中。反逆光でススキが金色に輝き・・・。しかし、よく見ると向うの山から煙が?火事??どうも、キノコ工場から出火したらしく、31日になってやっと鎮火したらしい。

高台の見晴らしの良い駐車場脇の階段を下りていくと、お店の扉が。お店の中からも上田の夜景が一望できる非日常的空間が訪れた人々をもてなしてくれる。

テラス席もあるので、晴れた暖かい日には最高だろう。因みに、今日(10月30日)の上田の夜は寒くて、とても外で夕食を食べようとは思わない。まあ、湯ノ丸山でも冷えまくったしね。

娘はボルドーのグラスワイン、防人はこの後に300㎞のさきもりちゃんの運転があるので、ザクロのエルダーフラワージュース。このエルダーフラワーシロップの炭酸割りはさきもりちゃんの納車の時にランドローバー京都で飲んで気に入ったものだ。イギリスではエルダーフラワーを摘んで、コーディアル(濃縮液、シロップ)にして、それを炭酸で割って飲むことが多いらしいのだ。お酒が飲めない人には食前の飲み物として飲まれることも多く、お酒が飲める場合はジン&トニックに少し入れると美味しいらしい。

本日の温前菜は茄子などの秋野菜を小麦粉で固めてパンのようにしたもの。上にのっている生ハムと食べると、何とも言えない風味が広がり最高。まあ、生ハムと秋野菜の味が濃縮されたパンを食べているような感じであった。季節ごとの旬な野菜を使っているらしく、この前まではズッキーニが使用されていたらしい。

本日の冷前菜。上には半熟のウズラの卵が乗せられていて、その下は信州サーモンのお刺身。この信州サーモンはニジマスのメスとブラウントラウトのオスを交配したF1で、信州の水産試験場が10年の歳月をかけて開発したお魚。適度な脂はトロリととろける舌ざわりと豊かな風味を醸し出し、それでいて後味はしつこくない。

娘が頼んだスープはトリュフやマツタケなどのキノコのスープのロワイヤル仕立て。まさに秋の風味そのものだ。下の卵の層(フランス風茶わん蒸し?)と混ぜて食べると、味がまろやかになりさらに美味しかったらしい。

防人はモンサンミッシェルのムール貝とそのエキスが濃厚に染み出たスープのロワイヤル仕立て。あのモンサンミッシェルの海の香りをほのかに感じたひと時だった(ッて、行ったことない癖に!)

クロダイの皮がこんがりと香ばしく焼いてあり、食欲をそそる。帆立の帽子とサフランで黄色の衣装をまとったジャガイモが、真上と真下から穏やかにクロダイを包み込み、おかずと主食が絶妙のバランスのもとで盛り付けられていて、まさに数学的には"閉じている"料理であった。

娘は食に関してひたすら攻めてくる。これは牛の心臓なのである。防人は注文するの躊躇したのだが、いざ、娘から少し貰って食べてみると、歯ごたえのある牛肉と言った感じで、さっぱりしていてとても美味しかった。次回は、この心臓を注文しようと固く心に誓った防人であった。

心臓に恐れをなした防人が注文したものは、ソリレスで豚肉をハム化したものを厚切りでソテーしたもので、小麦粉、パセリ、ピンクペッパーなどの色々な風味を楽しめる。ボリューム感あって、これはご飯を食べたくなってしまった防人である。でも、次回は心臓を注文するだろうなあ!

10月は娘の誕生月なので、そのことをお店の人に伝えておいたら、このような素晴らしい演出が。このケーキは栗のモンブランであり、中にはフランボワーズ(木苺の一種)のジャムがアクセントで入っていて、今まで食べたモンブランの中では一番美味しかった。上にのっているのはカリカリの信州リンゴ。

娘も二十歳の誕生日を迎えて、いよいよ成人か。ちょっと前まで赤ちゃんでヨチヨチしていたと思っていたのだが、子育て的には時の経つのは早いものだなあと思う(ただし、この四年間は時が経つのがゆっくりに感じ出した防人であるが…)。仕事から帰ってきた時、「おとうチャマッ!」と言って家から飛び出してきた頃が懐かしい。
結局、娘の無呼吸発作の原因は新生児感染症が原因だったようだ。あのNICUの日々から20年、とても充実した日々だった。
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