Defenderピヨピヨ日記(NO17 砂の器的大宰府旅行 七日目 瀬戸内の大崎下島から忠海!そして名古屋へ)

Defender購入後日記

 昨日夜遅かったせいか、朝は7時少し過ぎに目が覚めた。渡り廊下からお母屋に行くと、皆さんすでに起きていて我々のための朝食の準備をしてくれていた。忙しそうに朝食の準備をしながらも、4人姉妹の間で繰り広げられる軽妙な語りを聞き、その後姿を見るにつけ、そして、家の全体に漂うシュベさんやミカンづくりに人生を捧げられたシュベさんのご主人(おじさん)の気配、それらがふと僕をおふくろと過ごした時代にいざなって行った。

離れからお母屋を撮影する。築200年以上経つ家は風格があり、神様が住み着いているような威厳がある。海からの風が心地よい。
離れの前で記念撮影。この後、みんな揃って記念撮影。それにしてもこの家は風格あるよね。

「トッテ・チッテ・ター」

 おふくろの威勢の良い掛け声で日曜の朝は必ず起こされた。この「トッテ・チッテ・ター」というのは、軍国少女だったころによく聴いた軍隊の進軍ラッパの音を彼女なりにアレンジしたもののようだった。それが、我が家では家族や家に泊りに来たお客さんを起こすときに使われていたのだ。起こされて、食卓に行くと、お釜で炊いたご飯、大きな塩じゃけが食卓の上にデーンと置かれていて、しゃけは脂がのっていてとても美味しく、ご飯が三杯、四杯と進む。朝飯後は”兼高かおる世界の旅”を見て、のんびりした後は、おふくろの運転する車、日産のサニーとかスタンザとかブルーバードとかでドライブに出かけたものだった。オヤジは自分で釣りに行く時以外は運転はせずもっぱら母に運転を任せていた。また、車を買う時も、おふくろが日産の営業さんに来てもらって、アーでもないコーでもないと議論を重ね、パンフレットをもらって、彼女が好きな車を決めていた。そして、契約日は家に来た営業さん(いつも同じN村さんという人だった)に、

「夕飯はうちで食べていきんさい(広島弁)」

と半ば強制的に夕飯をご馳走していた。お茶碗が空になると、すかさず茶碗と取り上げ、ご飯を盛る。

「いやー、もうお腹いっぱいです」

なんて言おうものなら

「何言っているでぇ―、もっと食べんチャイ(これも広島弁か)」

と一切取り合わない。おふくろの中ではよく食べる人が信頼のおける人徳のある人という基準があったので、我が家に来た食の細い人は肩身狭かっただろうなあ。料理を作り始めると、他のことに意識が行かなくなるタイプで、全身全霊を込めてその料理を作る。それも、色々な種類の料理を同時進行して手際よく作るタイプではなく、一つの料理に全身全霊を込めるのである。だから、夕飯が出来るのを三時間も待って、登場した料理はハンバーグとご飯と味噌汁だけなんていうのはざらにあった。その傾向は僕が現在引き継いでいる。

 また、お客さんに出す和菓子とかもこだわりがあって、自分がこうと決めたら絶対にそのお菓子でないと気が済まないタイプだった。ある時、いつもの馴染みの和菓子屋さんに行くと、あろうことかお休みだった。その日は夜にお客さんがあり、その人に出す和菓子はこのお店の和菓子しかないとおふくろは決断していたようなのだが、休みでは仕方がない。

「別の和菓子屋さんに行こう」

という普通の言葉を僕はかけたが、決断をした彼女の耳にはもはや入らないようだった。つかつかとお店の背後の居住区に回り込み、そこの玄関のブザーを押し出したのである。しばらくすると、休息中のお店の人が出てきて、

「すいません、今日は休みなもので…」

と平身低頭に謝りながら断ると、

「今夜家にお客さんがくるんです。その人にはここのお饅頭を出したいんです」

とおふくろも一歩も引かない。

「しかし、今日は定休日なので…」

というお店の人の言葉に、いきなり玄関に座り出すおふくろ。そして

「わたしゃーお饅頭を作ってくれるまで、ここを動かんからねー」

と座り込みを開始したのである。お店の人もこれには根負けし、休みだったはずのその日は、結局、おふくろの欲するお饅頭を作ることになった。待つこと、一時間、10個のお饅頭を満足げに抱えて車に戻ってくるおふくろの姿があった。”座り込み”という行為の力強さを目の当たりにした出来事だった。

 僕と奥さんが結婚したのは1997年の秋なのだが、披露宴は親しい人たちを招待して山梨の実家でもやろうということになった(中さんには名古屋だけでなく、山梨でも司会をしてもらうことになった)。おふくろと姉は3日くらい前から料理を作り出し、途中からは他の人も加わって大忙しで準備が進行していた。当日、近所の神社で結婚式が終わり、その後、僕らと両家そろった写真撮影があったので、撮影場所まで行こうとすると、おふくろが我々の所にやってきて、

「今アタシは料理作りで忙しんです。だから、写真撮影はあなたたちで行ってちょうだい」

と言い出した。これには奥さん方の両親の目が点。その空気を感じ取った僕は(おふくろは全く空気を感じ取れていなかった)、おふくろの説得を続け、どうにかこうにか撮影に連れ出すことに成功。現在、その時の写真を見ると、奥さん方の両親、僕と奥さん、僕のオヤジ、そしておふくろが写っているが、もしかしたら、おふくろが欠けていたのかもしれなかったのだ。

 神社での結婚式が終わって…と先ほど書いたが、始まる前にはおふくろと姉らしいゴタゴタが、実はあった。神社では今まさに僕らの結婚式が始まろうとしていて、奥さんの両親も含め総勢50人くらいの人々が集まっていた。しかし、である。オヤジ殿がいないのだ。5分、10分、…時間が経過していく。その状況におふくろがまず耐え切れなくなった。おふくろはいつもより高めのトーンで、

「オヤジは一体何やっているでぇ―!」

周囲に響き渡る声でイライラを露にした。それに対して、姉が

「ママーッ、落ち着いて、落ち着いて、Yさんに家を見てきてもらおうよ。とにかく、落ち着いて」

となだめる。その5分後、今度は姉が立って後ろを見たり、座ったかと思うと、また立ったり、を繰り返しだし、真っ赤な顔になって怒り出した。それを見て、おふくろは

「あなた、落ち着きんさい!もうじきオヤジは来るから。兎に角、落ち着きんさい、穏やかに、穏やかに…」

と母親の威厳をかろうじて保って姉をなだめていた。30分過ぎた頃、オヤジ殿が神社の石畳をのんびり歩いてくる姿が観測された。すると、静寂な鎮守の森の中に、

「何やってたでェーッ! みんなに土下座しろッ‼」

というおふくろの声が響き渡ったのである。結婚式はこのように荘厳な雰囲気のなか無事に執り行われたのだった。

 結婚式と我が家での盛大な披露宴が行われた次の日、僕と奥さん、そして奥さんの両親が泊っている甲府のホテルのロビーに、おふくろと姉がやってきた。その日は、我々が甲府駅から新婚旅行でヨーロッパへと旅立つ日であった。奥さんのお父さんは、結婚式の三カ月ほど前、長年大事に世話してきたワンちゃんを失って、一時は大丈夫かと周囲が心配するほど落ち込んでいた。そして、やっとどうにかこうにか元気を取り戻した頃に、今度は一人娘が嫁ぐことになり、ペットロスに次いで娘ロスのダブルパンチになるのではないかと思い、僕はかなり気を使って接していた。僕は奥さんと御両親とで、おふくろと姉が座るソファーの所へ行き、そこに腰掛ける時、姉の方にふと視線を送ると、姉は手に持っていた一つの柿の実を机に置いて、ニターッと笑った。その笑いは暗黒の帳が降りてきそうな不気味なものだったが、それを無視して、僕としては気を使いながら両家に共通する話題を選んで会話を進めていた。具体的には、これから行く旅行先の一般的な話、例えば、「ウィーンは音楽の都ですよね」とか、「ヨーロッパは寒いでしょうね」とかの差し障りのない話題を選んでいたのである。ダブルロスのお父さんに気を使って、暗い雰囲気にならないように極めて明るく振舞ったのである。そして、会話もひと段落した時、机の上に置いてある枝付きの柿の実を姉が持ち上げて、再び、ニターッと笑みをこぼした。あまりに不自然な笑みで、不穏な感じだったので、会話が途絶えた状態となった。そして、その雰囲気に耐えきれなくなった奥さんのお母さんが

「美味しそうな柿ですね。どうされたのですか」

と会話を振ったのである。その問いかけに姉の目が輝いた。

「今まで、うちの柿の木には全く実がならなかったの。でもーーーッ、今年は実が一つだけなったのよー。どうしてかわかる?オニィ―ッ(僕のこと)わかる!」

僕はわからず、一同も沈黙。

「春にねーッ!うちの猫がさーッ!死んだのよ。それを柿の木の下に埋めたのよ。そしたら…」

姉は吹き出しそうになる笑いを必死にこらえて、

「なったのよ。この柿が! あなたたちッ、この柿、旅行に持って行きんさい(姉も時に広島弁になる)」

姉は、再び、柿の実をもって我々の目の前をユラユラと見せびらかすのだった。あまりにもその場がブラックで邪悪な雰囲気だったので、それを変えようとお母さんがまたしても、

「一般に、実がならなかった木に肥料とかあげると、しっかりと実がなりますものね。私の家のミカンの木も、なかなか実がならなくて困っているんですよ」

とフォローしたのがいけなかった。おかげで忠海始まって以来の秀才であったおふくろは閃いてしまったのである。ホテルのロビーに響き渡る大きな声で、

「犬だッ!お嫁ちゃんの家はイヌを埋めればいいッ‼ミカンの木の所にイヌを埋めてみんさいッ」

と言い放った。その発言に、姉もそんな手があったのかと興奮状態となり、

「そうだそうだ、イヌだ、イヌを埋めればいいっ!お嫁ちゃんちの犬だッ!」

の大合唱になってしまった。僕は恐ろしくてもはやお父さんを見ることは出来なかった。

 その後、ホテルを出た我々は甲府駅に向かった。ホームに東京行の特急あずさが入ってきて、我々はトランクを持ち上げて、あずさのデッキに乗り込んだ。ふと振り返ると、お父さんがそばにやってきて、僕の奥さん、つまり娘に

「気を付けて行ってくるんだぞ」

と話しかけている。お父さんの目は赤く、今にも泣き出しそうである、いやっ、もう泣いているのかもしれない。娘を嫁に出す父親の気持ちは、さぞ辛く悲しいものであったはずだ。発車のベルが鳴り出した。お父さんは最後に娘に何か言おうと、もう一歩前に踏み出したのだが…、おふくろはそれを見逃さなかった。後ろから突進してきて、お父さんに抱き着き

「お父さんッ!危ないッ‼列車が出発するッ」

と駅の中央部まで彼を押し戻してしまったのである。安全圏にお父さんを退避させる任務を遂行するや否や、ドアが閉まろうとしている入口のところの最前部にやってきて、両手を威勢よくあげて、

「万歳―ッ、バッザァーイ、バンザーィ!」

とお得意の万歳三唱を開始したのである。ドアが閉まり、ゆっくりと動き出す特急あずさ。おふくろの万歳三唱に見ず知らずの他人も万歳を始めていた。お父さんはポツンと、駅の中央に佇んでいた。 

エデンの海展望台というヘンな名前の広場があったので、さきもりちゃんを駐車した。
展望台から見たエデンの海、ではなく忠海の沖合。中央やや左の島が大久野島。
宮床の海に到着。鳥居が出迎えてくれた。黄色矢印が大久野島。
宮床の海水浴場。母やシュベさんが泳いだころは、コンクリートの護岸はなく、砂浜がなだらかな傾斜で神社から海まで続いていたそうだ。
しまなみ海道の生口島、多々羅大橋方面を眺める。台風の影響で波が高い。
こじんまりとした宮床の海水浴場。正面の小山は賀儀城というお城だったようだ。
反対の小学校側から見た景色。
床蒲神社とさきもりちゃん。

 我々は大長のおうちから盛大に送り出してもらい、二時間ほどで忠海に到着した。九州や山口の西側は厚い黒い雲が立ち込めていて明らかに台風の雲だとわかった。しかし、忠海は暑いぐらいに晴れていたが、風は強かった。海は瀬戸内海とは思えないぐらい波立ち、白泡が立っていた。おかげで海水浴の人は誰もおらず、落ち着いておふくろやシュベさんが泳いで遊んだ、忠海宮床の海を拝むことが出来た。その場に居合わせた80代前後のご夫婦の話のおかげで、当時の宮床の海を脳裏に思い描くことも出来た。これで、おふくろと姉も成仏できるだろう。大役を終え、旅のすべての目標が達成された満足感が、旅を続けるエネルギーを我々から奪い取っていった。

忠海の駅前。小さな村かなあと思っていたので、意外に大きな町で、駅も立派で驚いてしまった。

 福山で国道2号線から別れ、国道486号線に入る。その後、県道270号線を走り、備中国分寺の美しい五重塔を左に見ながら進むと、山陽道の岡山インターの看板が目に入った。Spotifyのお気に入り選曲してあった、ポルノグラフィティの”アゲハ蝶”がさきもりちゃんの室内にかかっていた。僕の好きな歌だ。

・・・

旅人に尋ねてみた、どこまでいくのかと

いつになれば終えるのかと

旅人は答えた、終わりなどはないさ

終わらせることはできるけど

 僕は高速のインターへ向けて、さきもりちゃんのステアリングを切っていた。

ムムムッ!何か見えてきたぞ。
備中国分寺の五重塔でした。岡山の名所。
雷雨の中、ひたすら山陽道を快走するさきもり号。トラックをかき分けて、虹の向こうの名古屋へ!

 8月1日に愛知を出発。岐阜→長野→山梨→長野→岐阜→富山→石川→福井→京都→兵庫→鳥取→島根→山口→福岡→佐賀→熊本→佐賀→福岡→山口→広島→岡山→兵庫→大阪→京都→滋賀→岐阜と巡り8月9日に愛知到着。走行距離2900㎞。

ガソリン代3万3528円、高速代1万9000円、その他の食費とかの雑費4万8713円、合計10万1241円成り。

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