Defender購入への道程(ピヨピヨ日記8:結婚)

Defender購入日記

パジェロが納車された日はウキウキとドキドキが交錯する中、犬山市の成田山に車祓い(くるまばらい)に行ったのだが、僕の記憶にはないのだが、奥さんによると帰宅後はくたくたに疲れていたようだ。しかし、当時は若かったので(今も若いと思っているのだが…)次の日には郡上八幡に釣りに行っている。3日目にして1000㎞を越えていて、一か月点検の時には9000㎞になっていた。

給油後、気が付いたのだ。このまま走行距離をリセットせずに乗り続けると「9」が並ぶ日が来ると。そして、その時はやってきた。新穂高での釣りを終えて41号線を名古屋に向けて走っている時だった。ちょうど路肩が空いていて、そこに車を止めて血相を変えてインパネの写真を撮り出す僕。唖然とする同乗者。

最初に買ったパジェロ(インタークラーターボ2800㏄)は大活躍した。セカンドとサードシートを倒してフルフラットにして、そこに布団、コッヘルやガスバーナー(現在Cafe Lagrangeで使っているヤツです)を放り込んで宿も予約せずに奥さんと出発。東北地方の遠野、宮古、閉伊川(川は釣り目的)、平泉、花巻のわんこそば、十和田、鳥海山、牛渡川、酒田、胎内川、上越の回転ずし、砺波、東尋坊、九頭竜川とぐるっと一周3000㎞の旅をしたり、毎年5月のGWにはフェリーで北海道に渡り、観光シーズンではない北海道を寒さに耐えながらドライブ、観光、そして釣りを満喫したり、警察に捕まって免停になったり。排ガス規制で乗れなくなるまでの10年弱であったがディーゼルパジェロによる28万キロを満喫したのだった。

二代目パジェロはZR5MT3000㏄のガソリンだった。前半はこのパジェロも活躍したのだが、途中から育児期と重なり、僕も釣りだ、登山だと家を留守にすることもできなくなり、徐々に送り迎え専用の車となっていった。そうなってくるとこちらも運転に対する興味も失せ、ましてや四駆熱を維持することもままならなくなった。そこに、三菱パジェロのMT車を廃止するというニュースがもたらされた(2011年のことだったか!)。年々ラインナップが減少していく三菱パジェロと歩調を合わすかの如く僕のパジェロへの思いも低減していった。それとともに我が家に台頭してきた思想が「もうパジェロじゃなくていいよね。ましてやディフェンダーなんてもってのほか。次買う車はカローラとかにして!」というものである。こちらも、「それもありかな」なんて思ってしまう所が、如何に四駆への情熱を失っていたかを物語っている(アレッ、カローラも現在は4WDがあるんだったかな?)。

そんな四駆に対する閉塞感あふれる我が家の状況を打ち壊すきっかけとなる電話が入る。中さんからである。ここ10年くらいは中さんとの連絡も数年に一度くらいの状況になっていたのだが…。

「俺、結婚したんだ。結婚式はもう済ませたんだけど、披露宴はこれからなんだよ。おい、防人、例の約束覚えているだろうなあ。よろしく頼むよ」

例の約束!忘れかけていたがまさか20年前の約束がまだ生きていたとは‼我々夫婦はこの電話より20年前の1997年に結婚した。結婚式場ではなく、我々がよく食べに行っていたレストランを貸し切っての披露宴であった。そこで問題となったのは司会をどうするかということだ。その時、真っ先に頭に浮かんだのは”中さん”なのである。彼の話術は巧みである。彼を通して語られる人物は、それが僕のようにつまらない理系的オタク人間であったとしても、ユーモアに富んだ面白い人物像に変換される。さえない一言が彼を通すと周囲の人を爆笑させるギャグに増幅される。学生時代はバンドを組み、合唱などではソロパートでアルトの美しい歌唱力を体育館全体に響かせた(これを聞いた音大の教授が、是非声楽科に来るようにと説得にくるようなレベルなのだ)。自然と中さんの周りには人が集まり、そこはいつも笑いの渦に包まれていた。彼ほどの適任者がほかにいるだろうか。中さんを知る奥さんも是非にということで、彼に披露宴の司会を引き受けてもらったのだ。当時我々はまだ20代だったが、年齢を感じさせない彼の堂々とした司会は大好評で、「プロの司会者を雇われたのですね」と誤解される始末。その後の二次会の司会は披露宴のフォーマルな雰囲気とは対照的にカジュアルな感じで彼の本領発揮!まさに独擅場だった。二次会終了後、奥さんと二人で中さんの所に行って、

「今日は本当にありがとう。とても印象に残る結婚式になったよ」とお礼を言った僕に、中さんは言ったのだ。

「オレの結婚式の時は、防人、お前が司会だからな」

「まあ、友人代表ぐらいのスピーチなら…」「いや、司会だ」などのやり取りをしたが、彼にとっても結婚式の披露宴は大事なことなので、そのようなことになったら僕ではなく誰かほかの適任の人に頼むだろうと思ったので、そう深くは考えることはなく口約束はしたのだった。そして、月日が流れその約束も忘れかけていたのだが。男に二言はないか!

その時、中さんは京都に住んでいて、奥さんになる人は京都で生まれ育った若くきれいな人だった。そのことが僕をさらに追い詰めたが、こうなったら、オタク的本領を発揮して徹底的に準備するしかない。披露宴会場は京都の歴史ある建物だといことがわかると、その歴史、工法、関係した人物などを調べ上げたし、中さんのお母さん(僕も小学生の時からお世話になっている)によるお琴の演奏もあったので、琴についての歴史(八ツ検校とやつ橋のことなど)、流派、現在の状況、お母さんの所属流派とその師匠の演奏についてなどを調べ視聴した。また、お嫁さんの生れ、趣味、馴れ初め、スピーチしてくれる人との関係などなど調べられることは調べ尽くし、それを暗記した。しかし、ただ暗記するだけでは不自然なので、それを繰り返してアドリブでしゃべっているような感じになるまで咀嚼した。何かの事態で場をつながなくてはいけなくなっても大丈夫なように必要かつ十分な知識を頭に詰め込み、融合し、馴染ませた。40代後半の僕が20代の中さんに劣るような司会をすることはできないと思ったのだ。披露宴の司会という大役を無事勤め上げ、御開きになった後、更衣室から見た京都の街並みの美しさ、清水の一念坂、二年坂、三年坂、高台寺、八坂神社、…すべてが西日に光り輝いていた。夜は中さん新夫婦と防人家族(僕、奥さん、娘、息子(トクチン))で京都の中心街で夕飯を食べたが、そのときになってこの日初めて飯を食べたような気分になった。披露宴会場で贅を尽くした料理が並べられていたのだが、司会のことに集中していたのだろう、まったく味を覚えていないのだ。京都に旅行に行く人は大勢いるだろうけど、京都に友人の披露宴の司会という大役をこなしに行ったことがある人はあまりいないだろう。このことは僕の自慢であり、人生の大事な思い出の一つとなっているのだ。

このビッグイベントのおかげで、再び中さんと我々夫婦は緊密に連絡するようになったのである。中さんがお嫁さんとドイツに赴任した時も、僕は娘と遊びに行って、10日間にわたってドイツやベルギーを案内してもらった。その時彼はこんなことを言っていたのだ。「帰国したらレンジローバーを買う」と。

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