僕の人生における車の購入に多大な影響を与えた人物がいる。その人物と初めて会話を交わしたのは小学校の入学式当日であった。そう、かれこれ50年くらいの付き合いとなる友人の中さんである。プロレスが流行ると、休み時間は廊下でプロレスごっこをした(小学校の帰りの会では「防人君と中さんがプロレスごっこをして困ります」とよく告発されて、先生に怒られたものだった)。スポーツタイプの自転車(ブリッジストンのロードマンというやつだったかな)が流行れば、どちらが先に買うかでしのぎを削ったりした。釣りキチ三平がテレビで放送され、少年たちが皆釣りキチ三平になった時も我々二人も例外ではなかった。いろいろな池に釣りに行ったし、釣具屋さんにもよく行った。そんな中さんとは小、中、高と同じ学校に通い、大学は違う所に進学したため疎遠になっていた。そんなある日、「フライフィッシング始めたんだけど、防人、たしかフライやってたよな。今度釣りに行かないか」と誘いの電話が入ったのだ。釣りキチ三平の漫画を夢中になって読みふけった少年時代、たしか、51巻だったか、三平君の師匠でアメリカ遠征中の魚信さんからフライロッド(フライフィッシング用の釣り竿)が三平のもとに届き、三平君もフライフィッシャーとしてデビューしたのだ。これにたいそう興奮した僕は、クリスマスプレゼントのお金にそれまで貯めたお小遣いを足してフライの道具一式を購入し、三平君に遅れること半年、僕もフライフィッシャーとしてデビューを果したのだった。それ以降、僕にとって「釣り=フライフィッシング」という恒等式が成立するようなり、危ないぐらいのめり込んだのだが、大学受験勉強で離れて以降、大学時代はまったくやることはなかった。そして大学院に進学して”ぶつり”の研究をやるぞと意気込んでいたそんな矢先に中さんから先ほどの電話が入ったのだ。「仕方がない、勉強が忙しいけど付き合いで久しぶりにやってみるか」という消極的な思いで約束の川に行ったのだが、フライロッドを手に持ち、川のせせらぎのもとに立ったその瞬間に昔の熱い釣りへの愛に火がついてしまったのだ。僕の住む名古屋は岐阜に近く、岐阜には郡上八幡を中心にアマゴや岩魚が住む良質な川が沢山ある。いろいろな川を日々妄想し、休みには社会人の彼女(今の奥さんです)の車(当時僕は車がなく、それどころか免許も持っていなかった)の助手席に乗って「あっちの川に行け、いや、コッチだ」などとやりながら彼女をこき使って釣りに行くようになったのだ(連れて行ってもらうようになったのだ⁉)。しかし、これではいかんということで、バイト代で免許を取り、研究室の先輩から1万円で車(スカイライン2000GT-ESポールニューマンバージョン)を手に入れて、自分で好きな時に好きなところに釣りに行けるようになった。ただ、この車、車軸が歪んでいたり(2~3年の間放置していたようだ)、ステアリングを握ると手が真っ黒になったり、夜、郊外の道を走っていると走り屋からレースを挑まれたり、釣りでダートに入ると底を擦ったりといろいろ問題があった。しかし、エンジンはすごく、2000回転くらいからターボが始動し(当時はターボが始動するとウィーンといった音がしたし、たしか緑色のランプが点灯した)ものすごい勢いで加速が始まる。釣り行脚で岐阜へ向けて41号線(名古屋と岐阜の下呂、高山を結ぶ国道)を繰り返し走るうちに、運転技術も上がり、ダブルクラッチやヒールアンドトゥーもマスターし、走り屋にレースを挑まれても振り切れるだけの(こちらは一刻も早く釣り場につきたい一心でステアリングを握って、毎回、岐阜詣でをしているわけで、すべての行程が真剣勝負のレースなのだ)レベルになっていったし、釣りのレベルも上がっていった。気が付くと「ぶつり」の研究は”ぶ”がとれていつしか「つり」の研究になっていき、大学院を辞めていた。学生時代からバイトしていた地元の小さな会社に就職し、釣りに連れて行ってくれていた彼女は奥さんとなった。そして、頭の中はお魚さんのことでいっぱいになった。こうなったのも、みな、あの中さんからの電話が原因だった。

色々なフライロッドがあるけど、鈴木寿さんと出会ってからは、SAGEという会社のロッドを使うようになった。ここの竿はキャスティング性能が極めて高いのだ。

渓流を歩きながら、毛バリをポイントに投げ入れて、お魚さんが釣れてくると、人生これで十分満足と思えてしまうから不思議だ。人生の意味を探している人は釣りを始めてみよう。
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