『権現山』という山名は至る所に現れる。「権現」と聞いてまずピンとくるのは、徳川家康のことである。晩年、彼は側近の本多正純(ほんだまさずみ)を枕元に呼び寄せて、
「自分が死んだら遺体は久能山に納め、一周忌が過ぎたら日光の山内に小さな堂を建てて、自分を神として祀(まつ)るように……」
と遺言を残した。家康は徳川の世が安定して続くように、死後もなお江戸幕府と、ひいてはこの国の守護神となることを望んだのだ。そして、神となった家康の神号(神様としての称号で、明神、権現、天神、天王、…などがあるらしい!)をどうするかで論争となったようだが、最終的には天海という人が主張した「東照大権現(とうしょうだいごんげん):東方を照らす仏の化身としての神という意味」が選ばれたのだった。そして、”〇〇東照宮”というところは、神君家康を東照大権現として祀る神社のことであり、”権現山”という山にはこの家康が祀られていることが多いらしい。しかし、『権現山』という名の付く山に登ってみても、「家康」とは無関係そうな山もある。この前登った洞山・鷹巣山においては白山神社の奥宮がある山に登ったが、その場所も「権現山」と呼ばれていたが、そこは白山神社の奥の院であって、東照宮とか家康とかの気配は無かった。
日本は古来から森羅万象に神々を感じ、色々な所に沢山の神様がいた(八百万の神:やおよろずのかみ)。それが、10~11世紀ごろになり、インドから渡来してきた仏教が人気になり始めると、日本古来の神々の本来の姿(本地:ほんち)は仏・菩薩であり、人々を救済するために仮の姿(垂迹:すいじゃく)で現れたとする本地垂迹という考え方が広まっていった。この神仏集合の思想に基づいて、仏が仮(権)の神としたあらわれた(現)ことを『権現:ごんげん』と呼ぶことになったそうである。
つまり、『権現山』とは、仏や菩薩が神様の姿で祀られている、または、家康が東照大権現として祀られている山ということらしい。というわけだから、『権現山』は日本全国至る所にあるわけらしいのだ。
前回、舟伏山・岩田山・三峰山を登った時、その東側に広がる各務原アルプス西端の山塊が視界に入り、帰宅して地形図を眺めていたら芥見権現山と各務原権現山という二つの『権現山』を結んで、良い感じの周回ルートが歩けそうに思えてきて、その妄想が支配し始めてしまうと、現実に歩いてみないと気が済まなくなってしまったので(もはや病気か!)、こうして、仕事が休みの水曜日に再び出かけたのであった。
《補足》てんぷらさんから入電!上記で登場した”天海”という人は、一説によると明智光秀だったと唱えている人もいるらしい。そうなってくると、『本能寺の変』の本当の首謀者は?
防人として一番怪しいと思っているのは、秀吉の中国大返し(備中大返し)である。これは、天正10年6月(西暦1582年)、備中高松城の水攻めのさなかだった羽柴秀吉が本能寺で信長が光秀に討たれたことを知った後、大慌てで毛利氏と和睦して、明智光秀を討つために京に向けただちに全軍を率いて取って返したことを指す。秀吉軍団2万5千人が、備中高松城(岡山県岡山市北区)から山城山崎(京都府乙訓郡大山崎町)までの約230キロを約10日間で踏破したという日本史上屈指の大強行軍と言われているが、このような大軍勢をこのような短期日程で動かすためには相当前から周到に準備していなくてはとても無理であろうと思っているのだ。ということは、本能寺の変は秀吉と光秀の間で計画されていて、光秀が実働部隊で信長を討ってみたら、秀吉に裏切られて攻め込まれてしまったので、這う這うの体で逃げ出したら、鈴鹿の山の中で岡崎に逃げ帰ろうとしている家康と出会って、…とか、秀吉、光秀と家康が黒幕で本能寺の変を企画し、実働部隊で光秀が討ってみたら、やっぱり秀吉が暴走して、光秀が討たれそうになって…、ルイスフロイスと秀吉が光秀を焚きつけて…とか、色々妄想が広がってしまうのだ。さて、本当の史実は如何に?「タイムマシーンがあったらとなあー」と思ってしまう防人なのである。

水色丸(東海自然歩道と書かれているところ)にさきもりちゃん駐車(8時15分出発)→長山城址(黄色丸)→芥見権現山(橙色丸 316m)→一つ目のピーク(焦げ茶色丸 名無しピーク)→270ピーク(緑丸 願成寺山というプレートがあった。更にそこには270mと記されていた)→桐谷坂→白山神社・秋葉神社の所にある東登山口→228ピーク→各務原権現山(赤丸 317m)→昼飯(紫丸)→諏訪山の池付近に下山→262ピーク→北山(黒丸 308m)→老洞峠(東海自然歩道)→岐阜市東部クリーンセンター→リフレ芥見→さきもりちゃんの駐車場所(水色丸 13時30分)

リフレ芥見の大洞池脇の広場にさきもりちゃんを駐車。リフレ芥見の駐車場は、登山者の車は駐車禁止となっている。

リフレ芥見側の登山口には長山城跡についての看板がある。そこから尾根筋に沿って登山開始である。

少し登ると景色の良い岩場があったので、そこから西の方角を見渡すと、中央には岐阜市最高峰の百々ヶ峰が横たわっていた。

長山城跡には吉野神社があった。周囲には堀切、竪堀、曲輪?などの遺構が残り、城マニアにはたまらないところだね。

芥見権現山に向かう途中の岩場からの眺め。ここからだと、三峰山(橙矢印)・舟伏山(と岩田山 赤矢印)、金華山(青矢印)がよーく見える。赤矢印の向こうは関ケ原方面、雪を被った山が伊吹山だ。

芥見権現山山頂。実は、今回登った山域の一帯は2002年に大規模な山火事が発生したところなのだ。当時、木々はすべて燃えてしまって禿山だったけど、最近は植生も復活してきた。

芥見権現山頂には手作りの東屋?があり、ノンビリすることもできるが、防人は先を急ぐのでほぼ素通りする。

芥見権現から桐谷坂に向かう稜線歩きでは、二つほどピークを越えることになる。まず、最初のピークがこの写真だ。

二つ目のピークは"願成寺山”という名前が付いているらしい。

桐谷坂の登山口に向かうトレイルからはずれて、少し登ると"どんぐり山”という所にたどり着いた。

どんぐり山山頂は開けていて、昼飯やカフェタイムに最高の場所だ。

しばし街中を歩いて、白山神社の所からダートに入ると東登山口だ。

各務原権現山に向かうトレイルは階段状になっていて、これが苦手な防人にとっては、結構辛く、汗だくで登り続けた。

山頂に向かう途中には、一つ岩(写真参照)とか二つ岩とかがあって、そこからの濃尾平野眺めは抜群だ。

各務原権現山山頂に到着。祠があって、ここには仏様の化身としての神様が祭られているのか、それとも徳川家康か?

山頂から北東方向を眺める。白矢印が御嶽山、青矢印が乗鞍、笠ヶ岳、黒部五郎岳(中ノ俣岳)。

更に北方向には高賀山(赤矢印)、白山(別山 白矢印)、誕生山(青矢印)が見える。更に西方向には能郷白山なんかも見えて、山好きな人にとっては最高の景色だ。

山頂から少し下り、伊吹の滝方面に少し行ったところの岩場で昼飯タイム。今回もデイリーヤマザキのパン(目玉焼きパンとチキン南蛮サンド)を食することに。ハマってます。

昼飯場所からの南方向の眺め。手前左の小山(外山?)は登れるらしい。その右にポツポツとある盛り上がった緑地は古墳だ。中央最奥のチビ突起は名古屋駅のビル群だ。

昼飯場所から東方向を見ると、おがせ池(水色矢印)、愛宕山・双子山・八木山の山群。更には各務原アルプスの山並み。

伊吹の滝方面に向けて気持ちの良い稜線歩きが続く。途中、鐘のある展望岩場があり、そこからの景色も素晴らしかった。伊吹の滝方面の登山道が合流するところから先は、稜線に沿って続く中電の鉄塔管理道を歩く。

209ピーク手前の鉄塔辺りに左右に降りるトレイルがあり、防人は右側の諏訪山地区方面に下山。途中の枝分かれを右に右に舵を切り降りていくと、諏訪山のため池の所に降りてきた。

ため池の所の林道を右折し、竹林を少し行くと、北山へ向けて登るトレイル(やはり、高圧電線の管理整備道)が左側に現れる。

電力関係の整備道があるおかげで、我々一般人も気楽に登山を楽しめるわけで、中電さんには感謝ですな。

再び稜線に上がり、周囲の空を見てみたら、それまでの青空と一変し、西の関ケ原、養老山系、伊吹・池田山方面には雪雲がかかり始め、いよいよ冬将軍の前衛部隊が到来したことを実感する。予報では今日の夜頃から日本全体が冬将軍に占領されるとのことであった。

稜線をしばし歩いて、最後の登りをこなすと、北山山頂へ。山頂北東脇にある展望所からは各務原アルプスの山並み(黄色矢印は迫間山や明王山あたりか?)が坂祝方面まで続いているのを観測できた。この「今日来た山」という看板はきっとオヤジ(40代以上のおっさん)が作ったのであろう。思わずにやけてしまった。

老洞峠からは東海自然歩道のルートに沿って、東部クリーンセンター、リフレ芥見まで歩くのだ。

これが岐阜市の東部クリーンセンターだ。去年は、実家の片付けで、山梨のクリーンセンターへの往復を散々行ったものだなぁー。

最近は、この山域に来ると必ず各務原市内のスタバーに立ち寄って、ハマっているエスプレッソアフォガード(スタバーの場合、エスプレッソアフォガードフラペチーノのトール)をチビリちびりやりながら帰路のさきもりちゃんとのドライブを楽しむのだ。至福の時である。
来週から仕事が忙しくなり、防人にとって極めて大事な休みの日が消失してまうことが多発する一か月間となるので、山にあまり登れなくなってしまうかも。二月一杯は社畜化一直線の防人なのでアール。


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