慶長5年(1600)9月15日(現在の暦で10月21日)、東軍と西軍の対立に伴う数々の前哨戦のフィナーレを飾る関ケ原合戦が行われ、午後、西軍が総崩れになる中、最後まで戦場に残っていたのが島津義弘隊(西軍)であった。西軍の多くが伊吹山の麓を琵琶湖方面に退去する中、島津隊は敵中突破による前進退却を敢行した(これを『島津の退き口(しまづののきぐち)』という)。島津隊は東軍の井伊直正や松平忠吉による容赦ない追撃を食い止めるため、やむなく、先陣の島津豊久(しまづとよひさ)が取って返して殿(しんがり)を務めることになった。このとき、井伊直政・松平忠吉らの部隊を足止めするために、島津隊が取った戦法が十死零生の『捨て奸(すてがまり)』という戦法だ。
『捨て奸』とは、敵から見えにくくするため、鉄砲を持った兵士があぐらをかいて座り、追撃部隊の指揮官を狙撃してから、槍で敵に突撃し命尽きるまで戦う究極の戦法なのだ。島津豊久、長寿院盛淳(ちょうじゅいんもりあつ)などがこの「捨て奸」で犠牲となる中、大将の島津義弘を国元である薩摩(鹿児島)へ帰還させることに成功したのだ。
的中突破した島津義弘隊は牧田上野から養老山系の東側(名古屋側)の麓を通り、養老山系の二之瀬を越えて時山から五僧峠へ、一方、島津豊久隊は牧田上野から養老山系の西側を通り、多良、時山から五僧峠へ。この時、豊久は関が原インターの近くにある烏頭坂の戦いで重傷を負っていて、どうにか上石津の勝地峠(かつじとうげ)を越えたが、白拍子谷(しらべしだに)で力尽き、自刃して果てたらしい。

前回はオレンジルートで烏帽子岳・県境稜線・三国岳・阿蘇谷を周回した。今回は、五僧峠・700ピーク(北横根)・東横根・横根(西横根!ここで昼飯)・803ピーク(ダイラの頭)・597ピークの周回ルートをたどった。
前回、烏帽子・三国岳を登った時、県境稜線を五僧峠まで行きたかったが、時間がなくて(家に帰って7時までには夕飯を作り終えなくてはならなかったからね)断念したのだった。そのため、今回は『ダイラの頭』~『ヨコネ』~『五僧峠』間の前回辿れなかった稜線を歩くために、そして、敗走する島津隊のたどった道の一部を歩み関ケ原の戦いに思いを馳せるために(クゥーッ!防人カッコいいッ‼)再び時山の集落にやってきたのだった。

ランドローバー京都に行くときによく使う県道56号線(薩摩カイコウズ街道)で養老山系の東側を北上し、牧田川沿いを走り出すと、なんと、伊吹山が雪化粧(青の囲いが伊吹山)。いよいよ冬到来か。

この前と同様に時山バンガロー村(文化伝承館?)に渡る橋の脇の広場にさきもりちゃんを駐車したのだった。黄色矢印は、前回拾った相棒だ。

牧田川沿いに時山の集落がある。その昔、関ケ原の時も島津隊はここを通り、五僧峠から近江へ抜けて行ったのだろう。それにしても昔の人は持久力あったよな。

時山の集落にいたマイペースの猫ちゃん。人に慣れているようだが、媚びることなく、自分の好きなようにふるまう所が猫らしくて素晴らしい。

牧田川沿いの林道(防人所有の地図[1997年度版]にはない新しい林道)をひたすら歩く。林道に沿う高圧電線は写真中央の県境稜線の鞍部を越えて行く。五僧峠はまさにこの鞍部の場所だ。あそこまでは林道歩きが続く。

五僧峠の"五僧"とは時山にいた5人の僧が住み着いていたことからこの名が生まれたという。1600年の関ケ原の戦いでは、島津義弘の一行は小林新太郎という人の案内で、ひそかにこの峠を越えて、高宮の河原で一泊し、翌朝早く出発。甲賀を経て堺に出て、海路で薩摩に帰ったらしい。

五僧からヨコネ・三国までの県境稜線にはしっかりとピンクテープが木々に巻き付けられているので行くべき方向を見失うことはない。しかし、トレイルは薄く、落葉時期はまったくもって不鮮明である。ここは山慣れした人に向いている場所なので、初心者だけで踏み込まない方が良いかもしれない。

平日ということもあって人の気配は全くない。360度パノラマが広がる絶景ポイントあるわけではないけれど、木々の合間からの景色を程よい感じで眺めることができて、個人的にはとても気に入った。

地図(山と高原の地図1997年度版)で700のピークに到着。北横根というピークであることをここにて知ることになる。五僧からここまで、50分かかった。最近、左膝が痛くて登りでスピードを出せない防人である。

北横根を過ぎ、稜線から次なる目標地点である東横根のピークを垣間見る。東横根に登らず北東面をトラバースして三国へ向かうルートもある。

東横根から三国・鈴北岳方面?を眺める。ここから県境稜線から南西に派生する尾根が横根(西横根)らしい。

県境稜線から南西に派生した稜線を30分ほど歩くと横根(西横根というのか)に到着。ここからもう少し歩くと横根最高点(764ピーク)にたどり着く。三国方面は再び戻らなくてはならない。

横根にてお腹がすきすぎて昼飯タイム。木々に覆われた頂上で落ち葉を座布団に五目チャーハン(ネギ、玉ねぎ、にんじん、ニンニク、挽肉)を食べる。早朝家を出てきたので、和牛などのぜいたく品を購入することができなかった。

横根からの帰路では東横根のピークに気が付かずに素通りしてしまい、東横根のトラバースルートの分岐まで降りて来てしまった。

分岐から三国方面を眺めるが、トレイル跡はない。しかし、ピンクテープ(右側の木の幹)が行くべき方向を指し示してくれているので助かる。

分岐から五僧峠方面のトレイルはこんな感じ。自然の林の中を歩く感じだ。

横根の分岐から40分をほど歩くと、ダイラの頭(803m)が見えてきた。

横根分岐から1時間ほどでダイラに到着。前回の烏帽子・三国登山では、ここから少し三国寄りの阿蘇谷ルートを使ったのだが、今回は阿蘇谷と毘沙門谷の間の尾根伝いを降下するルートを使ってみる。

ピークから少し外れると展望の良い場所を発見。ここで早朝デイリーヤマザキで買ったチョコレートドーナツを食べ、コーヒーを淹れる。正面の山は先々週に登った烏帽子岳だ。その向こうは養老の山々。

毘沙門谷に沿う派生尾根に入り込んでしまったり、阿蘇谷に降下するピンクリボンにつられて右側に降下してしまったりと、紆余曲折あったが、どうにか尾根に戻り597地点に到着。中央の窪地(ドリーネ?)は沼になっていた。さーて、これからボキはどちらに向かえば良いのかな?踏み跡はもちろんなく、ピンクリボンもまばらなのでルートファインディングが大変なのであーる。

前回は阿蘇谷を降下して、写真のオレンジ矢印から登場したのだった。道は荒れていて、場合によっては水線通しに突破しなくてはならず、靴が滑って壺にドボンとなってしまった防人である。今回は尾根伝いで来て、青矢印に登場したのだが、目印少なく、ついつい派生尾根に迷い込んでしまうので、これはこれで神経を使う降下路であった。GPSは使っていないので、歩き回って確かめる昭和的作業を何度もやる羽目に。トホホホッ!

さきもりちゃんと帰路のドライブを楽しんでいたら、多良の集落で『島津豊久の墓』の看板を見つけ、立ち寄ってみた。「今度、関ケ原から近江まで島津隊がたどった道のりを、自転車でトレースしてみるのも面白いかもな」と思い出した防人である。

看板には「島津義弘の姪の島津豊久と家老の阿多長寿院盛敦は殿(しんがり)を務めた。東軍の追撃隊を食い止め、盛敦は義弘の身代わりとなって上野で討ち死にし、豊久は烏頭坂で戦い、少数の残兵と共に上多良までたどり着いたが、ついに白拍子谷で落命した。享年31歳であった」とある。

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