本当は調和振動子その2を書くつもりだったけど、1月22日に渥美半島の衣笠山に登った時、それが中央構造線と関係していることを知って、「はて、中央構造線とは?糸魚川・静岡構造線とは違うのかいな?」ということになってしまい、ネットで調べただけだが、ここで自分の整理のためにまとめておきたい。なお、きちんと理解したい場合は「大鹿村中央構造線博物館」の記事をしっかりと読んだ方がためになるよ。僕は地学についてきちんと勉強したことはないのでね。
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そういえば、地学実習の授業を大学一年の時とったなあ。毎週実験がある物理や化学の実習に較べて、フィールドワーク2回のレポートと最終の授業にある岩石の試験だけで単位がもらえるから何の迷いもなく受講した記憶がある。フィールドワークは岐阜の瑞浪の地層の観察(たしかアベックタフとか言ったが詳しいことは忘れた)と三重の宇賀渓の2回だった。宇賀渓では集合時間になっても担当の先生が来ないので、誰かが公衆電話(当時は携帯、スマホはなかったんだよ)から連絡すると、なんと、まだ夢の中!3時間後にご到着ということで、みんなで宇賀渓の河原で水遊び。確か、6月の暑い日だったような。もちろん車なんてみんな持っていないので、名古屋からは近鉄で桑名、桑名からは三岐鉄道というナローゲージのローカル線でのんびりとした田園風景と鈴鹿や養老の山並みを眺めながらここ(宇賀渓)にやってきたのだった。河原でお弁当(コンビニ弁当だったかな⁉)を食べてしばらくすると、先生が到着。べつに待ち合わせ場所を決めたわけではないのに、「恐らく河原で遊んでいるだろう」とあたりをつけて、川沿いに歩いてこられたということだった。その後は時間が押していいたので、一か所だけ地層を観察して「その絵をかいて出してくれればいいです」という楽勝の内容になった。帰りは桑名の定食屋で同じクラスの連中3~4人で夕飯食べて名古屋に帰ったのだけれど、楽しい一日だったなあ。そして、何といっても極めつけは地学実習の授業最終日の岩石の試験である。僕は岩石なんてみんな同じに見えてしまうので、「はてどうしたものか!」と思って教室を見渡していると、Mr地学と言われた同じクラスのヤツの隣が空いているではないか。すかさず彼の隣に座り、地球科学科で岩石の研究をしたいという彼の頭脳をこちらも使わせていただくことにした。教授と助手が手分けして学生一人一人の前に20種類くらいの岩石の箱を置き、それをマス目ごとに石の名前の書いてある紙の上に置いていくのであるが、僕は隣のMr地学氏の置く通りにやるだけなので簡単である。一通り置き終わって、全く彼と同じというのも気が引けるので、二か所で石を入れ替えることにした。まあ、Mr地学殿には満点を取ってもらって、こちらは80点で遠慮しておこうと思ったのである。いよいよ、教授による採点が始まるが、みんななかなか苦戦しているようだ。学生数は10数名といったところだが、みんな出来が悪い。そして、いよいよ我々の席が最後となった。まず、Mr地学氏が採点を受ける。教授が「オッ!これは良くできていますなあ」と感心した様子で、眺めている。こちらも「さすがMr地学」と心でつぶやいたとき、教授が「残念、こことここが逆ですねえ。後は完璧です」と指摘した。その「こことここ」は先ほど僕が入れ替えた石の場所だった。なんという不運(僕にとっては幸運?)。その後、僕は教授から地球科学への進学を強く勧めれれたのは言うまでもない。あの時、地球科学へ行っていれば、今頃はいろいろな石のことがわかる大人になっていたのだろうか?さて、長くなったので本題へGo!
1億年前(中生代白亜紀)、中央構造線は、日本がアジア大陸の一部であった頃に形成された長大な断層の一つだ。現在でも東アジア一帯には長大な断層が幾筋も走っていて、これらをタンルー断層系というらしい。そのアジア大陸の中央構造線を含む一部が、ある時、大陸から分離し太平洋側に押し出され始め(理由はよくわかっていないらしい)。その西南部分が時計回り、東北部分が反時計回りに回転して現在の日本の位置にやってきたものが日本列島の原型だ。つまり、大陸から切り離された部分が真ん中で裂け、観音開きの扉のように「ハ」の字型に押し出されたわけだ。そうすると、「ハ」の字の真ん中の所は(つまり、西南日本と東北日本の間の関東地区ということになるか)東西に引っ張られ数千メートルも陥没し、そこが大きな溝、つまり「フォッサマグナ」となったわけであり、フォッサマグナの西縁が糸魚川・静岡構造線で、東の縁はよくわかっていないようだが、一応、柏崎から千葉を結ぶ線上あたりだろうということになっている。その後、東北日本は太平洋プレートに乗り西に動き始める。つまり、東北日本が西南日本を押して下に潜り込み始めることで日本アルプスの造山運動が開始し現在も続いているようだ。ということはこの東北日本と西南日本のぶつかり合いで生じている断層が糸魚川・静岡構造線ということなのか?さらに事態は動的様相を呈する。伊豆・小笠原列島がフィリピン海プレートの北上に伴って、「ハ」の字の真ん中(つまり、関東地区、または、フォッサマグナ南部)に衝突をし始める。およそ、1200~2500万年前のことらしい。この衝突で、甲府盆地西縁の櫛形山、同盆地東側の御坂、600万年前に神奈川の丹沢、そして現在、なんと、伊豆半島が衝突中!この衝突のため、中央構造線は豊橋の所で大きく北に曲げられ、天竜、伊那谷、諏訪(ここで糸魚川・静岡構造線と交差か!)の方へ追いやられてしまったのである。中央構造線、つまり、断層の窪地に沿っては川が形成され(四国では吉野川、紀伊半島西側では紀の川、東側では櫛田川)、豊川もこの構造線に沿って流れていた。2万年前の氷河が広がった時代には、海水面は現在より120mも低く、豊川の河口は三河湾の外側だったので、三河湾には豊川が作り上げた谷が横たわっていた。それが、1万年くらい前に氷河期が終わり、海水が侵入し、三河湾が形成され湾内の豊川の谷は水没したのだが、かろうじて水没を免れたのが渥美半島ということらしい。中央構造線より内陸を内帯(ないたい)、海側(海溝側or南海トラフ側)を外帯(がいたい)というが、内帯に沿っては領家変成帯、外帯に沿っては三波川変成帯、更に外側に秩父帯が分布する。三波川変成帯は三河湾においては完全に水没しており、渥美半島はチャートや石灰岩を含んだ秩父帯でおおわれているとのこと。このチャートは放散虫(プランクトン)の殻が降り積もってできた岩石だから、この秩父帯はもともと海洋のプレートから来たものということか。振り返ってみると、日本はアジア大陸のヘリの海洋プレートが沈み込むところにくっついていた。そうすると、大陸のプレートの下に海洋プレートが潜り込んでいくと、海洋プレート表面の堆積層が大陸のプレートによりカンナのように削り取られて、それが大陸側にくっついていく(付加してく)。このくっつた部分を付加帯と言う。つまり、日本は付加帯の集合体みたいなものだったのだろう。付加帯は圧力や温度によっていろいろな岩石に変身するが、時期によって温度や圧力が異なっていると付加帯ごとに異なる強度の岩石となり、強度が異なる付加帯の間を中央構造線(断層)が走るようになったというわけか。なんか、色々読んでいると訳が分からなくなり、疑問も生じてきたので、今度大鹿村の中央構造線博物館に息子とい行ってみようかな。

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