Defenderピヨピヨ日記(NO45 実家の数万冊の本の整理完了!?)

Defender購入後日記

 先週の水曜日の予報は雨で、八ヶ岳の別荘の閉栓作業。今週の水曜日(10月23日)の予報は雨で、実家の本の整理と清掃。来週の水曜日は娘の様子見と餌付けに上田詣で。本当に姉が他界してから4年間は車の走行距離が延びるイベントが次から次へと現れ、毎月盛りだくさんのことが起こり、初体験のことが多いこともあってか時間が経つのがすごくゆっくりに感じてしまう。あたかも、小学校低学年の頃の時間の経過感覚と同じだ。実家の整理では大量のゴミの運搬、本の運搬、…と新車だったさきもりちゃんを気を使っていたのも最初のうちで、現在ではそんなことも気にしていられなくなってしまった。色々な人が本を積み込み、ごみ袋を積み込み、攀じ登ってルーフキャリアーにも積んで、もはや我がさきもりちゃんは実家整理のワークホースとして大活躍中であり、細かい傷も至る所についてしまった状況だ。まさに、ドアを足で蹴り閉めて(もちろん、そんなことやっていないけどね)、本来のディフェンダーの使い方をしているのではと思うのである。

 飯田から諏訪までは中央道にのった。この諏訪パーキングにより、神戸屋ブレッズという所でパンを買った。ここにもスタバ―あるが、いつも思うのだけど、スタバ―いれておけば集客できると思っているワンパターン思考があるのでは。
 その後、エンストもなく今日も元気なさきもりちゃん。サイドマウントキャリアーの中には、ルーフキャリアーに荷物固定するネット、ベルトが積まれている。今日も運搬するからよろしくね。

 姉が4年前に他界してからひたすら実家の片づけをしてきた。最初は車調の極めて悪いパジェロ君だったが、2年前からからさきもりちゃんに変わった。まあ、さきもりちゃんも、エンスト病があり健康体だったとは言いにくいがね。実家は上下二世帯の家から成っていて、その一方の上の家には姉が住んでいたのだが、そこは姉の買い物依存による大量の物品で溢れ、足の踏み場もない状況だった。それをメルカリで売ったり(主にYa氏の奥様が担当してくれた)、ハードオフ、セカンドストリートに売りに行ったり、知り合いに貰ってもらったり、捨てたりとこれは大変な作業だった。その後、簡易的リフォーム工事後、庭の物置に段ボールに入れて積み上げられていた児童文学書を中心とする数万冊の本を上の家に搬入し(夏の暑い日、汗だくになり大変だったなあ)、並べ積み上げ、本棚を移動したりくみ上げたりしてそれに並べ入れた。そこから、各所に声をかけ本の譲渡手続き行ってきた。そして、今年の元旦にオヤジが他界した後は、この一年で目途をつけるため、作業を加速して走り続けてきたわけである。この間、Ya氏やその奥様、オヤジの一番弟子であるS登先生は毎回参加してくれて、作業牽引力絶大であった。その上、オヤジと師弟関係にあった方々とその周辺の人々が毎回入れ替わり立ち替わり協力してくれた。オヤジ亡きあとでも、息子でしかない防人にこのように手弁当で協力し続けてくれる人間関係を築いてきたオヤジを尊敬し直したし、何と幸せな人生を送ることが出来たことかと感心してしまう(まあ、これには7年前に他界したお袋も多大な貢献をしているのだろうけどね)。一方、姉は高校生の時に難病に侵され、社会に出ることが出来ぬまま、自分の人生の実存的意義を見いだせずにいつももがき続けた人生であった。人との距離感が上手く保てず、精神を壊してしまっていたが、彼女の唯一の親友であるFさんが姉の死去直後から力を貸してくれた。このFさんの紹介で山梨で演劇や文庫などの文化的活動している人々の輪に加わることが出来て、それらの方々が大量の本を延命してくれたのである。一人で出来ることは限りがあるが、人と人とのつながりがもたらすパワーの凄さを改めて感じ入った防人なのであった。本当にこの4年間は大変だったけど、実り豊かな日々であったことよ。とまあ、こんなことを書くと、実家の片付けも終わりかと思うかもしれないけど、我々にはまだ下の家の整理があるのだ。まあ、下の家に残された本は千冊くらいなので、今までに比べたら微々たるものだが、骨董の置かれていた棚の分解など、やるべきことは実はまだまだ沢山あるのである。しかし、ゴールが見えてきたのも事実だ。4年前、呆然と立ち尽くしていた時に比べたら天と地の差である。本当は、当時の写真も撮っておけばよかったのだが(Before・Afterが楽しめたのだが)、当時はスマホ持っていなかったし、ただただ、物品の山を前に言葉を失っていたので、もしスマホがあったとしても写真を撮るなどどいう行為を思いつきもしなかっただろう。まあ、兎に角、頑張って年内に目途をつけるぞ!

 今日は特に沢山の車が来て、交通整理を余儀なくされる。車をどの場所にどのように停めるかという難問に頭をひねり、車の切り返しの仕方をジェスチャーで示し、近隣の住人の方々にあいさつに回って「何か問題があったらすぐに防人の所にクレームを入れてくれ」と伝え歩く。
 上の家では和室に集められた児童文学本の最後の譲渡会が行われた。下の家では山田書店さんを中心にオヤジの骨董の三回目(最後)の運び出し、クロネコヤマトさんによる民芸家具の運び出し、古本を送付すると任意の団体に寄付される仕組みである「きしゃぽん」による本の引き取り(Ya氏の知り合いがなんと偶然にも実家の近くに住んでおられて、その方が最近片付けに参入してくれて色々本の引き取り場所を探してくれているのである)などが行われ、極めて盛りだくさんの一日だった。
 早朝からメシを食べることも忘れ、立ち働いてきたので、差し入れの食べ物がとても美味しかった。有難い限りであります。手前は有名なリーフパイ、その向こうは唐揚げ、しそ巻きささみフライ、おにぎり、などなど。
 実家の本の整理で大変なことの一つとして、段差がある二世帯住宅であるということだ。当然、階段の魔の手が襲いかかってきて、体力を奪い去っていく。
 当然室内にも階段が。上にも下にも横にも本があった。それらの重力の位置エネルギーを下げるために、人が重力に抗して仕事をして、ひたすら低いところに下げ続けたわけである。
 玄関もすっきりした。もとは靴箱の上、中にも本が積み上げられていた。写真右側の壁一面は本だった。
 これは前回の時の写真。DKは前回で基本整理完了しているので、状況は変わっていない。
 これも前回の写真。姉の大量の遺物を処分した段階で、簡易的なリフォーム工事をして、板張りの状態で止めておいた。この家に住む人が好きなフローリングを選ぶだろうと考えて余計なことをするのをやめたのだ。
 上の家の二階(つまり三階なのだが)の踊り場。もとは目の前、右端の壁にぎっしり詰まった本棚があり、床は足の踏み場もないぐらい、姉のネット通販の衣類、靴、ウィグなどが積み上げられていたのだ。
 高校生時代の防人の部屋だったところ。姉が他界した段階で、壁という壁には本棚、そして、姉の大量の服で密林のような状態になっていて光が差し込まない状況だった。部屋の中に分け入ることもできない状況だった。
 右の窓の前にも本棚があり、そこに窓があったことをすっかり忘れていた。畳のあるところには何体ものハンガーラックが置かれ、そこに姉の服がビシッリかけられていて、ここも暗黒の部屋と化していた。
 ここはすべての壁を埋め尽くすように本棚が置かれていて、そこにはオヤジがレンタルビデオ屋からせっせと集めてきた(「なんと時代の流れの読めていない行為を繰り返してくれたものよ」とただただ呆れるばかりだったが…)ビデオがずらっと並べられていた。床にもビデオが山のように積み上げられていて、それ以外は要らなくなったものが放り込まれていた。まさに、巨大なゴミ箱と化していた部屋なのだ。もちろん、光が差し込まない実家のブラックホールだった。
 過酷な片付けの後は楽しみの夕飯タイム。最近、どうも"かつ玄"(この"玄"は恐らく山梨県民にとってヒーローである武田信公に因むと思われる)で固定化されている。本当はもっと開拓すべきなのかもだが、過酷な労働の後は、食の冒険より食の安定を求めるのかもしれない。8時ごろに御開きとなり、各自お家に帰って行った。皆さんご苦労様でした。

 帰り道、名古屋に向けてさきもりちゃんのハンドルを握りながら、ふと気が付いたのだが、10月23日はさきもりちゃんが我が家に来て二年目の記念すべき日である(二歳の誕生日!)。誕生祝いにさきもりちゃんのお色直し、すなわち、バンパーのフジホワイト化をプレゼントすることにしようかなあ。

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