薬師谷を朝9時半に出発、盛岡、花巻まで下道で走っていたが、それだと福島土湯に5時の到着は無理ということがわかり、急遽、東北道に入り込んだのだった。そして、かろうじて5時ちょっとすぎ、土湯温泉の入り口に到達した。どうも、東北は慣れていないので、距離感がわからない。土湯温泉の真っ只中を荒川という温泉成分が濃厚に入った川が流れているが、この川は阿武隈川の支流である。面白いのは荒川を渡る橋の両側に大きな”こけし”が立っていることだ。Ya氏が、
「ここ土湯は、遠刈田(とうがった)、丸子と並んで東北三大こけし産地なんだよ」
と言っていたが、そう言えば、我が山梨の実家にも沢山のこけしがあったことを思い出した。

タイマグラキャンプ場でルーフキャリアーに乗り薬師谷に別れを告げる防人。早池峰山の方向を指している。

東京駅丸の内口の赤煉瓦駅舎を設計した建築家辰野金吾が手掛けた構造物で東北地方に残る唯一の建物らしい。

これが岩手銀行の内部。ここは2011年までは本当に使われていたというから驚き。

堀の向こうの鐘は、280年間にわたり、城下に時を知らせてきたらしい。

盛岡城の地下には、大量の花崗岩の岩盤が横たわっているようだ。その岩をふんだんに使い、東北では珍しい「石垣の城」が出来上がったらしい。

緑が涼し気と思うかもしれないが、薬師谷と違って、盛岡市内は暑い。汗がたらたら噴き出してきて、目に汗がにじみ前が見えなくなる。フゥ―ッ!

城内にある桜山神社とまつられている「烏帽子岩(黄色矢印)」。築城時に地面から掘り起こされたと言われているこの岩は、高さ6m、周囲20mもある巨大な花崗岩の岩塊だ。盛岡地方裁判所にある20mを越える花崗岩を真っ二つに割って生える「石割桜」も有名。兎に角、この城周囲はふんだんに花崗岩が露岩しているのである。

これが土湯温泉街の荒川にかかる橋の両端にある巨大こけし。三日月眉毛に切れ長の目とおちょぼ口が土湯こけしの特徴だとか。
父は若い頃、小説で身を立てていくことを思い描いていた。そして、高校の英語教師をして生計を立てる傍らで小説を書いていたのである。その高校で母と出会い結婚し、姉が生まれた。正確に記すと、結婚する前に姉を授かっていたようなので、要は出来ちゃった婚である。これは、今回、相続登記で父、母、姉の戸籍謄本を取得する過程で分かったことであり、生前、彼らの口から直接聞いたことはなかった。両親の人間味あふれる振舞の一端を垣間見た気がして、思わずニンマリしてしまったのだ。生前の父の口癖の一つとして「女(奥さん)や子供に構っていたら、人生終わっちまう」というのがあった。現在では許されないような台詞であるが、オヤジは自分のやりたいことにひたすら邁進するタイプであり、家族との時間より、小説を書く、児童文学の翻訳をする、釣で東北・北海道を放浪する、古代史の研究をするということが第一だった人なのである。その思想が色濃く出た行動が、姉が生まれてすぐに幼い彼女を自分の両親(祖父母)のもとに預け、自分は小説書きに専念したことである。幼少期に親と離れて過ごした姉の思いはいかほどのものだったか。しかし、祖父母の家にはオヤジの兄弟もいて賑やかであったし、緩やかな価値観の中でのんびりとした幼稚園・小学校時代を過ごせたのは逆に良かったかもしれない。育児を放棄したオヤジ(お袋が結核を患ったことも大きな原因ではあったが)はその後小説道に邁進し、文学界の新人賞を獲得する。そして、編集者からは「次はいよいよ芥川賞ですね」と言われる状況まで上り詰めて行った。このような状況で、小説家としての道に目途が立つかもしれないという期待感が高まりつつあったからだろうか、オヤジたちは姉を山梨の家に引き取る決断をする。その時の姉は中学生で、祖父母ののんびりとした価値観の中で育ち、その地での生活が自然なものとなっていたに違いない。それが、急激に異なる価値観、良い成績を取ることを期待され、絶えず上昇志向で生活し、大学に行くのであればそれは旧帝大(それも東大か京大)を要求されるという世界に身を置く羽目になったのである。しかし、姉としても幼児期に親と生活できなかったことによる愛情不足もあり、必死にその要求に答えようとする。中学で良い成績を取り、高校は当時山梨のトップ高に入学。そして、有名大学(明らかに東大だろうね)目指して頑張るとぞと意気込んでいた矢先、姉の身体は変調をきたす。鼻血が出だすと30分以上止まらず、授業中や家での異様なレベルの睡魔に悩まされ、保健室の先生の助言で病院で検査を受けた。結果は良血性再生不良貧血。その後の闘病生活、そして脾臓を摘出するという手術の結果、全身性エリテマトーデスへの移行。以降姉は不治の病と付き合っていかなくてはならない体となってしまったのである。それにより、オヤジの生活も激変した。治療費や高価な薬(ゲルマニウムという薬だったと思うが)を得るために、小説の道を断念し、大学の教員として安定した収入を得ていくことにしたのである。
発作が起き、緊急搬送され、生死の境を彷徨い、そこから生還した姉は
「朝のご飯がこんなにおいしく感じられるなんて、生きているということは幸せだわ」
とぽつりと言った。それを聞いたオヤジは
「飯だけを食べ豚のように生きる人生なんて意味はない。小説を書け。病人こそは小説を書くべきだ」
と厳しい口調で言ってのけたのだ。高校卒業の見込みがなくなり、東大への道が立たれた姉はオヤジを師匠として小説を書き始める。しかし、常識的に小説で世に出る、生計を立てるなんてとても厳しいことだし、まして、芥川賞や直木賞なんてほんの一握りの人たちしか取れないものである。更に、姉は不治の病を背負い込んでいるのだ。しかし、オヤジはこれを病気の姉に要求し、姉もその期待に応えようとしたことにこの二人の悲劇があったのかもしれない。小説を書いては父に酷評され、落ち込んでは再び書き、それを酷評される。いつしか、姉の中には小説への憧れに加えて憎悪、憎しみ、怒り、恐れに近い感情も育っていったであろう。オヤジと衝突し、数か月間口をきかない状況が続いたかと思うと、いきなりオヤジを師匠として再び小説を書こうとする。しかし、長続きせず再び絶筆.オヤジとは断絶状態となる。でも、しばらくすると起筆し、…を繰り返し続けて行ったのである。小中学生だった僕は「何故にこの二人は同じことを繰り返しているのだろうか?」と不思議に思ったものだが、この繰り返しは、確実に姉の精神を崩壊させていったのだ。リストカットなどの自傷行為が始まり、そのうち、精神安定剤を大量のお酒で服用するようになっていった。このような娘(防人にとっては姉)の変貌と共に人生を歩んでいったオヤジはいつの頃からか、東北に行った帰りには姉のためにこけしを買ってくるようになった。幼い娘を祖父母に預けて育てさせて、かわいい盛りを見損ねた悔恨の念からなのか、病の娘に過酷な小説修行を強いたことに対する謝罪の念なのか、自傷行為を繰り返す娘への憐みの念なのか、いや、この防人が考えるこれらの陳腐なオセンチな思いなど一かけらもなく、オヤジならではの独特な理屈や思いがあったのかもしれないが、凡人の私には知る由もない。こけしの由来は「子消し」であるとい説があった(まあ、この説は民俗学的には、このようなことを記述する文献は一切見つかっておらず、現在では否定されているらしいが)。これは亡くなった我が子、口減らしで手放してしまった我が子の供養として、こけしを家に飾ったというものだ。オヤジも小説道追及のため、幼い娘を口減らしした。その償いの人生な中にあって、こけしを買い続けたのかもしれない。現在、山梨の実家には大量の児童文学の本、骨董、雑貨などがあるが、その一角に数十体のこけしがほこりにまみれて鎮座しているのである。これらのこけしに秘められたオヤジの思いとは何だったのだろう。

これが今宵の宿。土湯温泉山根屋旅館。

旅館の窓からは荒川が見える。

部屋の雰囲気は大正ロマンを意識しているとかいないとか。到着早々大浴場で汗を流し、夕飯に備える。薬師谷では沢山虫に刺され、至る所痒かったが、お風呂に入ったら収まった。

上げ膳据え膳でのんびり飯を食べることが出来るのは最高だね。お酒も入り、ご満悦の防人。後ろの仲居さんはベトナムから日本に来たらしい。

一泊1万2千円でこの内容なら大満足ではないですかね。我々は海鮮コースを選んだ。もちろん、肉コースもあり他のお客さんの多くは肉コースであった。

お刺身の盛り合わせもあって、言うことなし。防人は「名倉山(猪苗代湖畔の山)」という酒の小瓶を飲んで、瞬間的に酔っ払い、ふわふわ浮いた感じとなり、部屋に戻るや否や爆睡。そのためなのか、早朝6時に目が覚めて、おかげで露天風呂を楽しむことが出来た。
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