Defenderピヨピヨ日記(NO26 before and after)

Defender購入後日記

 ある晩の8時ごろ、珍しくオヤジから電話が入る。

「オニ―ッ(僕のこと)、ネーネ(僕の姉)が死んじまった、死んじまったよーッ!」

とオヤジはいつもより興奮した口調で姉が他界したという事を繰り返した。数日前に電話で姉と話したときは、極めて元気だったので、

「オヤジ、悪い冗談はよせよ!」

というと、

「こんな時に冗談なんて言うわけないだろッ」

と電話の向こうのオヤジは少し怒った口調である。

 話によると、姉は前日にインフルエンザの予防接種を在宅でオヤジと二人で受けた後、二時間後から体調が悪くなり、次に日(オヤジから電話がかかってきた日)には意識が混濁するまでに悪化、救急車での搬送するも途中で心肺停止状態となり、あっという間に旅立ってしまったようだ。司法解剖の結果はWeterhouse-Friderichsen症候群であり、インフルエンザの予防接種とは科学的な因果関係を認めることは現時点では不可能とのこと。この時、オヤジは90歳、この後の警察署での遺体の引き取り、お葬式、姉の遺産の相続手続き、そして、家の片付けなどは僕がやらなくてならない。山積する課題に茫然とし、すぐにでも名古屋を立ち山梨に帰らなければならないのだが、あろうことか、その日の夜中頃から38~39℃くらいの熱を出してしまったのである。ちょうどコロナが流行り始めていて、熱を出すことはヤバいことのような風潮が出始めていたので、「まずいことになったわい」と思いながら、名古屋からお葬式の手配、姉の友達に連絡、オヤジの勉強会の人々に連絡、刑事さんとのやり取り、ウトウトしてもすぐに電話で起こされ、…etcを二日間ほどこなし、ルル三錠で何とか熱を下げ、三日後に山梨に駆け付けたのだった。夕方、オヤジの家に入っていくと、オヤジは僕を認識するとニヤニヤ笑みを浮かべている。姉が他界したという出来事があった後の対面としてはあまりに不自然で、不謹慎な雰囲気に唖然としていると、オヤジは僕にここに座れと指さした。言われるままにその場所に座ると、テーブルの上には4~5冊の姉名義の預金通帳が並べられている。オヤジは

「これはみんなオニ―ッ(僕のこと)のモノよッ!」

と言い放った。現実はオヤジが相続するもの(姉は未婚)であるが、すべて僕が管理してくれて良いということを言っているようなのだ。通帳の残高を合算すると1500万円くらいあるではないか。

「オニ―ッは今日からお金持ちなのよ」

と言うものだから、僕も脳裏でチャリンとお金勘定モードとなり、姉の死を悲しむ雰囲気が妙な方向に転移してしまった。

 姉は高校時代より、難病を患い、青春時代は闘病生活に明け暮れた。そして、生涯就職することはなく、お金を稼いで生計を立てることもなく、親と共に生活してきたのである。なので、僕は親の遺産はすべて姉に任すことにして、僕としては相続放棄と決めていたのだ。両親の十分すぎる退職金、払い続けられている高額の年金、そして、おふくろのお兄さんからの2000万円にも及ぶ遺産などを合計すると、極めて膨大な額になるはずで、姉一人で生きていくには必要かつ十分なお金が入ってくるはずであった。そして、僕は日頃から姉に、

「両親亡きあとは、そのお金で生きていかないといけないのだから、日頃からしっかりためておけよ。僕は我が子二人を育てることでいっぱいいっぱいだから、姉の金銭的サポートは出来ないからね」

と何度も言ってきたのだある。なので、通帳の合算額が1500万円と言うのはなんだか少ないような気がしたのだが、まあ、それは姉が数十年一人で生きてくためには少ないという意味で、僕レベルの経済スケールでの1500万円は十分大きな額であった。葬儀後のゴタゴタもひと段落して、オヤジと共に金融機関巡りが始まった。最初の銀行での出来事は今でも鮮明に記憶に残っている。その銀行には344万4千円のお金が残っていた(残っているはずだった)。それをオヤジの口座に移すための相続手続きで我々は窓口の人とやり取りをしたのだ。こちらは、300万円以上の額なので、プチ大口顧客的な気分で少し態度も横柄なものだったと思われる。オヤジもニタニタ笑っているし、こちらもおおらかな語り口調で「まあー、よろしくお願いしますわ」なんていう雰囲気だった。これに対して、窓口の女性は怪訝そうな顔で、

「これぐらいの額ですと、急いで移さなくてもよいのではないですか!」

というようなことを言ったのだった。なんだか、不自然さを感じた僕は

「ところで、この口座にはいくら残っているのですか?」

と疑問を投げ掛けた。すると、窓口の女性は

「4千円でございます」

と言うではないか。開いた口がふさがらなくなり、オヤジの方を見ると、オヤジも顎が外れているではないか。しばらく二人で目を白黒させていたが、

「ネーネ(姉のこと)はすげぇーなあっ!」

と言うオヤジの一言で、その場が和み、三人で爆笑したのだった(爆笑するしかなかったのだ)。そんなこんなで、銀行をすべて巡り、残っていた額は何と、ナント、…、220万円でしかなかった。今までのお金を大事に貯めて行けば恐らく1億以上あったはずなのだが一体どこに消えたのか?

 その後、姉の家の片付けが始まった。部屋を埋め尽くす未使用の服(封を開けてもいないものがほとんど)、歳不相応の若者的な靴の数々、積み上げられた数百着の大島紬、至る所に散乱している気持ち悪いウィッグ、積み上げられているコンニャクゼリーの山、複数台の液晶テレビとPC、健康器具、津々浦々の老舗から取り寄せた豆大福、月々送られてくる高級な複数種類のコーヒー豆、大量のレコード、実態のつかめない定期購読、定期飲食、定期配信サービス、…。暗中模索、五里霧中、全く実態がつかめない状況からのスタートであり、まさに、心の月をさきたてて、浮世の闇を照らしてぞ行く状態だった。そして、死後も届けられ続ける商品の数々、督促状、時には豆大福の未払いに対する訴状。結局、銀行口座の残金はあっという間に底をつき、マイナス100万以上となった。すべての契約内容を把握し、それらを解除するだけで3カ月以上がかかった。家の整理はオヤジの勉強会の人々や姉の親友が手伝ってくれたのにもかかわらず、一通りのゴールを迎えるまでに1年10カ月が経過してしまった。そして、整理は終焉を迎えたのか!

 いやいや、防人家はそんな甘いものではないのだ。今度は、空っぽになった姉の家に、オヤジが若い時から集めてきた膨大な数の児童文学の本の搬入が始まったのだ。オヤジは薬師谷の児童文学館の夢が潰えると、それまで集めた本には興味を示さなくなり、それらを庭に並べおいた物置に押し込めてしまったのである。それと共に本が並び置かれていた家の中の跡地は、その時その時でオヤジの興味を持ったものに置き換わっていった。劣悪な環境下に置かれた本は傷んで土のようになってしまったものも多く、心が痛む思いだった。そのような本の救出作業中、本を粗末に扱ったオヤジや姉に対する怒りにも近い感情が何度も僕を襲ったが、オヤジに当たることは何とか我慢した。「少なくと、1000万ぐらい金を残しておけよ!」と心の中で掃き捨てるように繰り返したし、100万ポッチの金では労働に対する対価としてはあまりにしょぼするきるではないかとも思った。本当に、大量の作業、ごみを残してくれて、金はほとんど残してくれていないではないか。あれだけ収入があったのにもかかわらず、そして、姉はそれを食いつぶして逝きやがって。一時期はかなりイライラが募って、二人を心の中で罵倒する日々の防人だった。かなり心が荒んでいたのかもしれない。そのような状況からも立ち直り、本の家への搬入も一段落して、引き取り先を探す段階では、その手配をオヤジの勉強会の人々は率先してやってくれていた。そんな状況に僕も胡坐をかいて、彼らに頼る気分となり、何となくのんびりモードとなっていた。そんな矢先に、オヤジが他界したのだった。

 オヤジが旅だった後、残った僕を助けてくれたのは、やっぱり、あの勉強会の人々である。更には、姉の親友とその周囲の人も僕を助けてくれている。そして、僕は気が付いたのだ。オヤジや姉は大量の作業やゴミを残し、お金は残さずに逝った。しかし、である。実は、このようなオヤジの勉強会に集まった情深い、知的で金勘定をしない人々もまた残していってくれたのだった。このことこそ、オヤジや姉が僕に残した最大の、もっとも偉大な遺産、大いなる遺産(Great Expectations)だったのではないだろうか。

一時期はジャム作りはまったオヤジ。30瓶以上のジャムが台所で発酵し腐っていた。生前、オヤジはこれらのジャムを捨てることを拒み続けてきた。オヤジの家の片付けでは、まず、このジャムたちが行く手を阻むことになった。

 二日間で、勉強会の人々などにも手伝ってもらって、以下のように片づけることが出来た。

Before 晩年のオヤジの寝室兼書斎
After
Before 大量のビデオが積み上げられていた。
After
Before 二階の廊下にも大量のビデオが!
After
Before 冷蔵庫の中や横の棚に大量のジャムがあった。写真は撤去後のもの。、
After
Before ダイニングテーブルの上でもよく研究をしていた。
After

 残るは、中国関係の膨大な本、古代日本に関する研究資料や全集、大量の中国雑貨、浮世絵、そして、いまだに残る膨大な数の児童文学の本がまだまだ我々の行く手には立ちはだかっている。地道に、しかし、スピード感をもってやっていくしかない。目標はこの一年後の実家の売却である。

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