つりの呪文(オヤジのことについて)

未分類

「林道を走るときは、轍の中に車の車輪を入れてはだめなのよ。車のそこを擦ってしまうからね」

 先ほどからハンドルを右に左に切りながらオヤジは、僕に林道の走り方を教えてくれている。そう言う僕は、まだ、小学校4年生くらいで、車の運転のことにそれほどの興味は抱いてないし、必要性にも迫られていない。この時、我々は岩手県閉伊川水系の支流である薬師谷の林道を下流方向に向けて走っていたのである。薬師谷の中流域ぐらいの所に、早池峰山荘という自家発電の山荘があり、夏休を利用して一週間ほど滞在しているのである。目の前を流れる薬師谷でイワナ釣りをしたり、日本のエーデルワイスとして有名なハヤチネウスユキ草が咲き乱れる早池峰山を登山したりと、アウトドアー三昧の生活をしていたのである。といっても、オヤジは遊んでばかりいたのではなく、大学の先生をしていたこともあり、ゼミナールに参加している学生たちを大勢引き連れて、英文学の勉強会をこの早池峰山荘で行っていた。そして、厳しい勉強会が一段落すると、目の前の川でイワナを釣ったり、登山をしたり、河原でボケーっとしたり、涼しい部屋でのんびり昼寝をしたりと各自各様の過ごし方で、東北の涼しい谷の生活を満喫していたのである。そんな午後の緩やかな時間を、オヤジは僕を誘い、下流方向のヤマメとイワナの混成域に向けて車を走らせたのだった。山荘周辺やその上流域では、イヤというほどのイワナの出迎えを受けたため、少し飽きてしまい(なんと贅沢な)下流に行ってヤマメにでも相手してもらおうという魂胆だったのだろう。目的地に着くと、オヤジのサポートを受けて河原に降り立ち、釣り竿伸ばして仕掛けをセットして、川の中の石をひっくり返して、底にいるカゲロウの幼虫を三四匹ほど針に串刺しにした。当時、僕はフライフィッシングの道具も持ってきていたのだが、川でのフライフィッシングのやり方がわからず、もっぱら、オヤジと同じ川虫を付けての脈釣り(餌釣り)がメインだった。釣りながらオヤジの後について河原を歩いていくと、如何にも魚がいそうな一級のポイントが現れた。オヤジは振り返り、後に続く僕を見てニヤリと笑い、

「あそこでやってみろ」

という。その時の僕は、すでにオヤジから釣りの英才教育を受けていて、どこに魚がいて、どのくらいの深さをどのくらいの速さで仕掛けを流せばよいかと言うことをしっかりとたたき込まれていた。だから、その場所においては何の躊躇もなく、無意識に仕掛けをポイントに投入し、竿に伝わってくる魚の反応に全神経を集中させた。数秒後、ビクンビクングググッと生命の躍動する感触が竿を通して伝わってきた。合せを入れると、何とも言えない手ごたえがやってきて、アドレナリンが体全体から噴出され薬師谷を包み込んでいくのがわかる。何度か走られたが、無事に手元に手繰り寄せてみると、30㎝弱の丸々と太ったヤマメだった。その後、オヤジも何とも苦しげではあったが、どうにかこうにか小さなイワナを釣り上げ、数の上では一匹対一匹だったが、まあ明らかにサイズ的には僕の釣ったヤマメが圧倒していた。山荘に帰ると、ゼミの学生はみんな大喜びで、

「先生が釣ったのはどっちですか?まさか、こっちのチビイワナ君なんてことはないですよね」

とおちょくっていたが、オヤジはニコニコしながらその場をやり過ごしていた。

オヤジは若い頃から味噌ラーメンが好きだった。来来亭のラーメンは晩年特に好んで食べていた。高級料理には全く興味がなく、ハンバーグ、ハンバーガー、カレー、とんかつ、天丼、牛丼、焼肉キングの焼肉がオヤジの好きな食べ物。魚は大の苦手だった。

 僕が小学校から高校にかけて、オヤジは月に数回、時には毎週の日曜日に我が家で勉強会を開いていた(もちろん、僕が大学に行った以降も勉強会は続いていたのだが)。そこには、大学のゼミの学生、大学を卒業して社会人になっても勉強を続けている人、大人に成ってから勉強をしてみたくなった人など10数名の人が参加していた。毎回昼頃から人が集まり始め、夕方の6時~7時までぶっ続けで行われていたようで、その内容は厳しく、苛烈であったと伝え聞いている。その後は、おふくろと姉が奮闘して作り上げた夕飯をみんなで卓を囲んで食べるのだが、「チャールズ・ディケンズが…」とか「ニーチェとサルトルは…」とか「梅原猛の”水底の歌”では…」とか、知らない人の名前が連発され、議論白熱し、ワイワイガヤガヤ夜の11時過ぎくらいまで宴会が続き、夜12時を過ぎる頃、東京へ皆車で帰っていくのだった。この勉強会は座学が中心であったが、時に現地に赴いて、その場の雰囲気を感じて、見て確かめて、距離感を確認することもあった。例えばテーマが”武田氏”についてのことになると、長篠城、高天神城、岩村城、そして、武田氏滅亡の地である天目山などに出かけたりもした。毎回、車数台で列をなして出かけるので、子供の僕は嬉しくて、色々な車に乗せてもらってはしゃぎまくりだった。このような環境で育ったため、僕は大学のゼミナールはオヤジの勉強会のように密接で、濃厚で、厳しく、楽しく、時に美味しいものであると思い込んでいた。そして、名古屋に大学生としてやってきた時、似たようなゼミに出会うことを期待していたのだが、ついぞ、そのようなゼミに出会うことは叶わなかった。その後、僕は社会人になって、仕事以外の勉強を続けていくことの難しを体感した時に、あのオヤジの勉強会に参加していた大人たちの学問に対する情熱、まじめな姿勢、継続することの熱量に改めて尊敬の念を抱くのだった。僕が育ってきた環境はあまりに特殊だったのだ。

オヤジの集めた児童文学関係の書物は膨大だ。当時の勉強会の仲間が集まってくれて、整理、譲渡手続きをし続けているが、いつ終わるか見当もつかない。莫大なお金と労力をかけて集めたのだろう。

 オヤジから英才教育を受けた僕の”つり”には、その後、”ぶ”が取り付けられて、”ぶつり”となり、大学時代は数理物理学や素粒子物理学の計算をし、研究したのだが、あることがきっかけで”ぶ”が取れて、再び”つり”に戻ってしまった。そのきっかけと言うのは、小学校時代からの幼馴染の中さんと久々に南アルプスの早川に釣りに出かけ、そこで川に立った時である。ふと、昔オヤジと薬師谷の川を歩いた時の記憶が蘇り、あの太った大きなヤマメを釣った時の手ごたえ、興奮、そして夕飯でそれを食した時、脂が乗っていてとても美味しかったこと、そして何と言っても最高のポイントを前にしてニヤリと笑ってそこを譲ってくれた時のオヤジの表情などが思い出されてきたのである。その瞬間に、僕の脳裏からは”ぶつり”の”ぶ”は消え去り、”つり”一色に染まってしまったのだ。それからというもの、生活は釣りを中心に考えるようになった。まず、免許を取り、研究室の先輩から一万円で車(スカイライン・ポールニューマンバージョン)を譲ってもらい、岐阜、長野、石川、福井の渓谷に足を踏み入れるようになった。オヤジが東北や北海道の川を中心にイワナを釣りまくったのに対して、僕の興味は北アルプス周辺の川、特に、黒部川に向けられるようになり、そこでイワナ釣りをやった。ただ、黒部川での釣りは普通の川の釣りとは異なり、登山技術なくして成立しない。そこで、名古屋近郊の岩場でクライミング技術も磨き、持久力を上げるために周辺の低山を歩き回った。若い時のオヤジがそうであったように、この時期の僕の生活は釣一色だった。

 オヤジの大学の卒業論文はエミリーブロンテのWuthering Heights(嵐が丘)だったようで、英文学専攻だった。その後、海外の幅広い児童文学に目を向けるようになり、翻訳も手掛けるようになった。更には、小説も書いたりもしたが、いつのころからか、児童文学についての世界各国(日本も含む)の本も集めるようになった。釣りで訪れた薬師谷を気に入り、そこに児童文学館を建てることを夢見るようになると、本の集め方も加速し、家の至る所に本が積み重ねられるようになって行った。そして、薬師谷の村長と意気投合し、児童文学館建設の話が進んでいくが、あと一歩のところでその村長が選挙に敗れ、オヤジの児童文学館建設の夢は潰えることになった。その後、オヤジの興味は海外から日本国内へと向くようになり、日本の浮世絵、骨董、などで家があふれるようになってくる。それと共に、日本の古代史に興味を持つようになり、もはや、英文学専攻とは程遠いところまでズレてきてしまうのだが、本人は興味の赴くままにやっているのでお構いなしだ。古代史を理解するには、古事記や日本書紀を調べているだけではだめで、古代中国の歴史記録を調べなくてなならないと感じ取り、四川大学に数年にわたり留学したため、勉強会には中国の優秀な若い学生たちも加わり、より国際色豊かで活発なものとなっていった。

 晩年のオヤジは、山梨県甲府市酒折町の酒折宮に伝わる酒折宮問答歌に興味を持った。これは、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と御火焼翁(ミヒタキノオキナ)の間に交わされた蓮歌で、日本武尊が東国を征服して、筑波周辺から帰る途中、酒折宮に立ち寄り、

「新治(にいはり)筑波を過ぎて幾夜か寝つる」

〈新治、筑波の地を通り過ぎて、ここまで幾晩寝たのか?〉

とかがり火をたいた老人に尋ねると、その老人は

「かがなべて夜には九夜日には十日」

〈日数を重ねて、夜では9夜、昼では十日(9泊10日)です〉

と答えたと訳すのが通説である。しかし、オヤジは

「日本武尊自身が旅してきたわけなのに、”筑波からここまで何日かかったのか”なんて間の抜けた質問をするのはおかしいではないか。それに、”老”と言う字は現代の”おいたひと”ということではなく、大老とか老子のように尊い人に使う言葉である。この問答歌は位の高い人同士のやり取りなのではないか」

と疑問を持ち、この歌を古代中国の歴史書に埋め込んでみることで、全く異なる意味であることを示して見せたのである。最晩年のオヤジは、白村江の戦い、天智天皇、天武天皇、壬申の乱についても、該当する古事記、日本書紀の記述を中国の歴史記録の中に埋め込むことで、通説を覆すことに残りの生命を燃焼させて取り組んでいた。彼の少年のような好奇心は死の数日前、もしかしたら、死の時まで途絶えることはなかったのかもしれない。

 オヤジの死亡確認の後、病院を立ち去る僕に看護師さんが、入院の際のオヤジの持ち物を渡してくれた。大小さまざまな長さの鉛筆が入った筆箱、論文を書くときにいつも使っていた白紙の原稿用紙、そして、古事記論考とういう本の三品だった。オヤジの持ち物を助手席に置いて名古屋に向けて車を走らせると、甲斐駒ヶ岳、富士山、八ヶ岳、…など幼いころからの馴染みの山々が周囲を取り囲んでいた。すでに、オヤジは天国にあって、おふくろや姉の出迎えもそこそこに、御火焼翁、天智天皇や天武天皇と卓を囲み、真の古代史を目の当たりにしているだろう。きっと、まぎがいなく、オヤジは後に続く僕を振り返っているに違いない。オヤジのニヤリと笑った顔が、盆地を取り囲む山々の上に妙に鮮明に浮き上がっていた。

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました