Cafe Lagrange (雨読編28 人の生と死についての弁証法的考察から時間の不可逆性について!)

Cafe Lagrange 雨読編

 最近、さきもりちゃんのエンジンからモーター音のような”ウィーン”とか”ミー”とかいう音が聞こえるようになった。なんだか軽く表層的なモーター音が気に喰わず、気恥ずかしいものであったのだが、これはもしかして何かが劣化し始めていて、故障の前兆現象なのかもと思い出した。そこで、無料AI君と課金AI君の二人から教えてもらったことによると、「8万5千キロの走行距離、P状態でも音がしてアクセルを踏み込むに従って音が高くなっていく、ATFやデフオイルは一年以上前に交換済み、走行中はずぅーッと音がし続けている、という情報群から導かれる帰結は、オルトネーター(ダイナモ発電機)、またはファンベルトの張りを調整しているプーリー(テンショナー)の軸受けベアリングのグリス切れ、摩耗にちげぇーねぇよ!」ということだった。我がさきもり号は11月1日にランドローバー京都に一年点検に行くので、そこまでは何とか持ちこたえてほしいと思い、水曜日もあまり過酷な遠出は控えようと心に誓った今日この頃なのである(前回の鎌ヶ岳・入道ヶ岳縦走のときにこのモーター音を意識したのだった)。

 さきもりちゃん、奥さん、奥さんのお母さん、娘と共に金華山にやって来ました。
 麓の岐阜公園も、きれいに整備されて、昔の面影(子供たちの公園だった)は無いね。

 このようにさきもりちゃんと遠出が出来ないとなると、家にいる時間が長くなるので、そうすると、どんどん思考の世界に入ってしまうわけである。今回は生と死、明と暗、善と悪、女と男、粒子性と波動性、生成と消滅、…などの二項対立により新たな段階に進む、つまり、テーゼとアンチテーゼをアウフヘーベンしてジンテーゼの領域に至るという弁証法的考察(だからと言ってヘーゲルとかカントを詳しいわけではないのだけれど)に意識が向かい出したのだった(実は、ここ10年くらいズゥーッと考え続けているのだけどね)。

 今から10年前にお袋が他界、7年前に姉が他界(この時から苛烈極まりない実家の片付けがスタートしたのですがね!)、2年前にオヤジが他界し、防人側の親兄弟はみな旅立って逝った。そして、今年の9月に今度は奥さんのお父さんが他界されたのだった。このように近しい人々を見送ってくると、「生」と「死」の双対性をいやでも思い知らされてきて、自分も後何度お魚釣りに行けるだろう、美しい紅葉の山々を歩けるだろう、美味しご飯を何杯食べられるのだろう、・・・と考えてしまうのだ。この思考は少し一般化され、『「始まり」があるという事は「終わり」もなければならい(諸行無常)のだろうか?』となって頭の中を駆け巡ることになる。もちろん「始まり」はあるけど「終わり」がないものもある。自然数(\(1\)から始まるが終わりがない)、幾何学の半直線(ある一点から始まり他方へ永遠に伸び続ける)、ビッグバンで始まった我々の宇宙(断熱膨張的に冷却され続けながらも、終わりはむかえないという説が最近有力)、・・・などであるが、これらは皆人の思考の産物だったり、現在までの理論や観測からの予想に過ぎないと思われてしまうのだ。この世の中は、「生」と「死」、「始まり」と「終わり」、いや、もっと抽象的に「テーゼ」と「アンチテーゼ」がせめぎ合い、その結果「ジンテーゼ」というそれまでより次元の高い領域へと導かれているように思えるのだ。
(例)を挙げよう。
●「個体の生」(テーゼ)、「個体の死」(アンチテーゼ)
 ⇒種としての「進化」や「遺伝子の更新」(ジンテーゼ)
●「男」(テーゼ)、「女」(アンチテーゼ)
 ⇒「新しい生命」や「遺伝子的多様性」(ジンテーゼ)
●「善(秩序)」(テーゼ)、「悪(混沌や異端)」(アンチテーゼ)
 ⇒「新しい道徳」、「法制度」や「人権意識」(ジンテーゼ)

 僕は学生の頃、よく新興宗教の人に話しかけられた。彼らは
「悪のない世界は素晴らしいと思いませんか。正義に満ち溢れた犯罪の一切ない世界を我々は・・・」
と言っていた。僕はすかさず、
「ちょっと待ってくれッ!悪がなければ善もないですよ。悪がない世界は善もない極めてモノトーンなつまらない世界になってしまうと思いますよ。プロレスもヒール役がいるからベビーフェイスが引き立つんじゃあないですか!」
と突っ込んで、いつ果てるとも知れない平行議論を繰り広げたものだ。暇だったのだ。

 小学生の頃だったろうか。深夜に目が覚めて、ふとテレビのスイッチを入れてみると、サングラスをかけたロン毛のお兄ちゃんがギター片手に暗ーい歌を歌っていた。
  男と女のあいだにはー
  深くて暗い河があーる
  誰も渡れぬ河なれどー
  エンヤコラ今夜も舟を出す・・・
 何とも暗く、しかし、印象に残る歌詞だった。この歌が『黒の舟歌』で長谷川きよしという人が歌っていたという事を知ったのは随分後のことだ。「男」と「女」の深い川があるかもだが、夜な夜な船を出すことで「新しい生命」の誕生や「遺伝的優位性」のジンテーゼを生み出し、生命の永続性を形作っていくのだろう。個体としての「生(始まり)」には「死(終わり)」があるが、その死は生命全体の「進化(終わりなきプロセス)」へとアウフヘーベンされるわけだ。更に、個体としての人間自体を見ても、細胞の再生(始まり)とそのアポトーシス(終わり)を繰り返すことで、一人の人間の「生命維持」が成り立っているというのは面白いことである。単なる個体の消滅(死)で終わらせることなく、生(テーゼ)と死(アンチテーゼ)を巡る一つの巨大な永続的サイクル(ジンテーゼ)として統合する(アウフヘーベンする)というのは、東洋哲学がカントやヘーゲル以前のはるか昔から直感的にとらえていた『輪廻転生』という自然観そのものではないか。

 いつもと違って、今日は婆バ(奥さんのお母さん)がいるので、ロープウエイで山頂へ!
 途中に支柱が全くないんだねぇー!ロープが美しいカテナリー曲線を描いておるワイッ。

 ゲーテが最も力を入れた作品は戯曲ファウストではなく『色彩論』であったと言われている。彼は「光(明)」と「闇(暗)」との二項対立の境界にあるくもりの部分に色彩が生まれると考え、白色光をプリズムで分光すると虹色のスペクトルが生まれるというニュートンの光学と対立した。ゲーテによると、明(光:テーゼ)が強まると黄色に向かい、橙を経て赤へ、暗(闇:アンチテーゼ)が深まると青へ向かい、紫を経て赤へと収束し、最高の色彩である『赤(純赤)』で両者が結ばれて色相環が成立する(ジンテーゼ)と主張した。そして、人間とは無関係に存在する客観的自然を数量化し記述しようとするニュートン以降の力学のありようを批判し、観測するもの(観測者、人間)と観測されるもの(自然、物理現象)分けて考えることは出来ないと主張したのだった。量子力学の生みの親の一人である、ウィルナー・ハイゼンベルグは
「ゲーテの色彩論は、量子力学の本質を射抜いていた。もし、彼が批判されるところがあったとするなら、それはニュートンにとどめを刺すことが出来なかったという一点においてである」
と述べたと伝えられている。 小学生の頃、志村ふくみさんという草木染に人生をささげている人の事が教科書に載っていたようないなかったような(もしかしたら、別の機会に読んだのかもだが!)。彼女に言わすと藍瓶がら取り出した染物は、一瞬美しい緑色を醸し出すが、その後すぐに消失してしまうらしく、その緑を残すことは不可能であるらしい。その神秘は
「藍瓶から取り出されてきた染物は闇を背負っていて、それが光と混ざり合う瞬間に鮮烈な緑を発色するように感じる。この緑の不思議を解き明かすカギはゲーテの色彩論にあると思う」
と述べていた(ように思う。多分!)。

●ゲーテの思想をまとめておく。
 「光(明)」(テーゼ)、「闇(暗)」(アンチテーゼ)
  ⇒境界の曇りの部分に鮮やかな「色彩」が広がる(ジンテーゼ)

 城ケ峰方面を眺めております。
 山頂駅到着でぇーす。

 古典物理学(ニュートンの力学やマックスウェルの電磁気学)においては、粒子性と波動性は相反するものである。

〇粒子(テーゼ)…互いに排他的であり、同じ場所に同時刻に存在することをよしとしない。そのため、粒子同士が出合うと衝突し、衝突後の運動状態は衝突前に対して激変する。

〇波動(アンチテーゼ)…互いに包括的であり、同じ場所に同時刻に相手の存在を許容する。そのため、波同士が出合うと重ね合わせにより干渉する。そして、干渉後は出合う前の波の状況と何ら変わることなく、互いに独立性を保って進行していく。

 ここまで相反する物理的対象をアウフヘーベンする必要がミクロの原子世界で生じたのだった。電子、陽子、中性子などの粒子と思われてきた連中は波動的特性を示すことが分かり、一方、ホイヘンス、ヤング、マックスウェル等による研究のリレーにより波動の典型として扱われてきた光は、粒子的特性を持つことが分かってきたのだ。この矛盾する対象をアウフヘーベンするのは困難を極め、コペンハーゲンのニールス・ボーアのもとに世界各国から集まって来た天才に達によって『量子力学(ジンテーゼ)』という形で統合されたのだった。

〇量子(ジンテーゼ)…光(光子という)や電子は、観測されていないときには存在確率の波として抽象的なヒルベルト空間内に存在している(この波を具体的な波として観ることは出来ない)。そして、観測を行うと存在確率が高いところに粒として姿を現す。このように量子力学ではミクロの世界の光子や電子を、見ていないときは数学的な波、見ているときは現実的な粒という形で説明することに成功したのだ。

 しかし、この量子力学は一つの粒子の確率振幅(存在確率の波)を記述するもので、粒子の生成消滅を記述することは出来ない。一方、アインシュタインの相対性理論の有名な帰結である、
          \(\displaystyle E=mc^2 \)
という式があるが、これはエネルギー\(E\)は質量\(m\)に転換しうるし、その逆も起こりえることを表している。このエネルギーと物質の相互変換、すなわち、真空のエネルギーから粒子が生成されたり(アインシュタインのテーゼ)、消滅したり(粒子を消し去るアンチテーゼ)する現象を記述できるようにするため、場の量子論という学問分野では、量子力学の波動関数(存在確率の波を表す関数)を演算子として量子化する第二量子化という驚天動地のアウフヘーベンを実行するのだ。その結果、生み出されたものが生成演算子\(a^{\dagger}\)と消滅演算子\(a\)であり、これにより粒子数が変化する枠組みを理論の中に組み込むことに成功したのである。この場の量子論(第二量子化された量子力学のこと)によると、固定された永続的な物質(粒子)などは存在せず、真空という「場」の中で、粒子が生まれては消えるという事こそが、この世界の現実であることが示されたのだった(例えば、中性子はベータ崩壊を起こし、陽子、電子、反電子ニュートリノに分解する。一つの粒子が消滅し、そこから三つの粒子が生成されるのだ)。

●量子力学の世界をまとめておく。
 「粒子性」(テーゼ)、「波動性」(アンチテーゼ)
  ⇒観測していないときの波と観測した時の粒という量子(ジンテーゼ)

●場の量子論の世界をまとめると!
 「生成演算子」(テーゼ)、「消滅演算子」(アンチテーゼ)
  ⇒物質とは静的なモノではなく、生成と消滅を繰り返す動的なモノ(ジンテーゼ)
 これは、東洋思想の『輪廻転生』であり、『空即是色、色即是空』を数式で表現したもの!と言ったら大袈裟か!

こんなところにレストランがあったとは!
 レストランから養老山系方面を眺める。

 このように色々な「テーゼ」と「アンチテーゼ」の対を見てくると、何とも言えない違和感を抱くようになった。それは何なんだろう?例えば、「明」→「暗」は逆に「暗」→「明」としても、双方向的(つまり可逆的)であり、どちらから見てもその間に虹色のスペクトルを垣間見ることが出来る。ミクロな世界の粒子たちも「生成」→「消滅」でも、「消滅」→「生成」であろうともどちらも違和感なく可逆的である。しかし、人間レベルにおいては、「生」→「死」はあっても逆は起こることなく不可逆的である。同じ二項対立であっても可逆なものと不可逆なものがあることが気になってしまうのだ。この違いは恐らくはミクロ系とマクロ系の差として表れているのだろう。

●ミクロ世界
 素粒子の生成・消滅を記述する数学理論(方程式)は、時間を順方向に進める場合でも、逆方向でも時間反転対称性があるため、全く同様に成り立つのである。

●マクロ世界
 人間のような生命体は、\(10^{27}\)個の原子が集まった巨大システムであり、超複雑に組み上がって出来ているものである。このようなシステムがばらばらに崩壊して終焉を迎える(死ぬ)のは簡単なことであるが、逆に、バラバラだった原子が偶然にも寸分違わず組み上がっていき元の人間に戻る確率はとてつもなく小さなものになってしまう。そのため、「生」から「死」への冷酷で絶対的な一方通行になってしまうのだ。これこそが、『熱力学の第二法則(エントロピー増大の法則)』であり、マクロ系に現れる『時間の矢(不可逆性)』なのである。

●シンプル過ぎる世界
 大きさを無視した物体がバネにつながれて調和振動している状況も可逆的である。時間を進めようが逆転させようが、それを記述する数式(ニュートンの運動方程式)は全く同様に成り立つのだ。ここに、空気抵抗や摩擦抵抗を加えた途端、物体の運動は不可逆的になり、方程式も時間反転で不変にならない。この空気抵抗力や摩擦抵抗力は膨大な数の分子間の相互作用の結果生じることがこのような不可逆的変化を引き起こすのだろう。

 素粒子や原子が一個から数個の系は可逆だが\(10^{23}~10^{27}\)個レベルの熱力学システムになるとエントロピー増大の法則が根底に横たわり出す。それでは、原子の数がどの程度の量になってくるとエントロピー増大の法則が背後に忍び寄ってくるのだろう。まあ、この手の問題は
「水面はきちんと定義できるのだろうか?」
という問題と似ていて、解決は難しいだろう。マクロスケールから見ると、水面は明らかに定まっているように思えるかもしれないが、どんどん自分が小さくなっていって、ミクロスケールの小人となって水面へ分け入って行ったとしよう。水面に向かって突入していくと、酸素や窒素の空気分子ばかりだった状況から、段々水分子が周囲を飛び回るようになって行って、その数も増え密度が増えていくのだろうが、気が付くと完全に水中に突入していたことになり、
「はて?一体どこが空気と水の境界だったのだろう」
ということになる。不可逆性が現れるラインはどこか?という問題は、上記の水面はどこか?という問題同様、いや、それ以上に難しい問題なのである。

 何はともあれ、我々は膨大な数の分子が集まったエントロピー増大の法則が支配する世界に生きているわけであり、「生」→「死」の流れを止めることは出来ない。しかし、この流れを感じるそもそもの土台は、我々が『時間の流れ(時間の矢)』を感じることにあるのだろう。
「この『時間』は本当に客観的に流れているのだろうか?人間の生活とは無関係に時間は宇宙全体を支配しているのだろうか?いや、もしかしたら時間とは我々の脳の中にのみ存在しているだけなのではないだろうか?実は、我々の脳が時間と言うものが進んでいるように見せているだけなのかもしれない」
という疑問が防人の脳の中を駆け巡るようになり始めているのである。
 例えば、先ほど「明」と「暗」の間に鮮やかな色彩が存在してるというゲーテの色彩論を述べたのだが、それでは色彩はどこにあるのか?という問いを考えてみよう。赤という色は宇宙空間に厳然と存在しているのだろうか?実は、赤色は我々の脳の中にのみ存在しているのである。ある特定の振動数の電磁波(これ自体に色は無くて、単なる電場と磁場の振動現象である)が目に入ると、その振動数で揺すぶられた目の中の電子の振動が脳に伝達されて、それを赤に色付けして我々に見せているだけなのである。この色を認識する過程と同じように、『時間』も我々の脳が創り出している幻影なのではないか!脳が記憶を一つ蓄積するごとに、脳内の情報量が増えていき、それによってエントロピーが増大していく不可逆なプロセスを時間の経過として脳が処理しているだけではないのか。もし、脳に記憶を蓄積していく仕組みがなければ、我々は「生から死へ向かう時間変化」を認識することすらできないのであろう。この考え方は防人独自のものではなく、以前読んだ書物群に多大な影響を受けているのだろう。恐らくは、ループ量子重力理論の権威であるカロル・ロヴェッリの書物あたりかもしれないけどね。兎に角、人間がこの世界を生き抜くために「過去を記憶し、未来を予測する」という脳の構造を進化させた結果、その生存戦略の副産物として「時間は不可逆である」という強烈なリアリティーが脳内に立ち上がってきていると思うわけだ。このように脳が「自分」という個体の記憶を収集し維持しようとするシステムだからこそ、その崩壊(死)を「絶対的な終わり」として認識するのだろう。
 しかし、もし視点を「1人の脳(個体の記憶)」から、人類や生命系が持つ「遺伝子や言語という名の巨大な共同記憶」へとアウフヘーベンしてみるとどうだろうか。個体の脳の記憶は「死」によって消滅するが、その情報や影響は次の世代にリレーされ、螺旋状に積み重なっていくわけである。
 このように見てくると、生命の「生」→「死」、「コーヒーとミルク」→「カフェオレ」、などの始状態から終状態への不可逆性のあるマクロ現象とその背後にある構造(物理法則)の可逆性or永続性のアウフヘーベンこそが我々の宇宙の姿なのかもしれない。

●この辺りでまとめておこう!
「ミクロ世界の構造や法則の可逆性、永続性」(テーゼ)
「マクロ世界の不可逆性、諸行無常」(アンチテーゼ)
「我らの宇宙(動的進化の舞台)」(ジンテーゼ)

  これは"勝ち戦!信長どて丼"を注文したけど、ヴォリューム満点で意外に美味しかった。

 中学の時、財津和夫の曲を中さんから色々と紹介してもらい、それ以降様々なアルバムを聴いて来たのだが、それらの曲の中に『一枚の絵』という美しい曲がある。

 この世に ぼくは生まれてきた
 だれにたのんだわけじゃない
 どうして花は咲くのだろう
 どうして時は戻らないの
 何も信じられるはずはない
 ・・・
 花は咲いて(生)、そして枯れていく(死)。しかし、枯れた後には種が出来て次の世代(来シーズンの開花)にきちんと受け継がれていく。一方、人間の生存戦略として情報の記憶という構造を脳が持っている以上、脳が創り出した『時間』という幻影は不可逆であり続けるのだ。

 さーて、ここからが本論なのであり、今のところ書きたいことの半分にも到達していないのだが、随分と長くなってしまったし、これから書こうと思っていることは数式も必要になるので、この辺りで区切りをつけて、この続きは次回にいたしやすか。それではお休みなさい。

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