山で暮らしていたハイジは、都会のフランクフルトに住むゼーゼンマンさんの所に預けられる。しかし、山の生活が染みついた彼女は都会の生活に疲弊し病(確か夢遊病?)を発症する。「私はお山でないと生きていけないの」という台詞をハイジが言ったのかどうかは知らないが、この状況を思い出した防人家の奥さんは僕に向かって言った。
「”アルプスの少女ハイジ”を思い出して、あなたが毎週のように山や谷に行こうとする状況が何となくわかったわ。”僕ちゃん、お山でないと生きていけない”のよね!。今後は”中部の中年ハイジ”と呼ぶことにするわ」
その奥さんによると、娘はヨーゼフ(物語に登場するセントバーナード犬)、トクチンはヤギのユキちゃんらしい。このように我が家での奥さんによる僕の位置づけが確定したことで、毎週毎週の山行や釣行に行きやすくなったか?というと、これについてははなはだ疑問であるが。
週末に中さんとの釣行予定を控えた水曜日(防人は水曜日と日曜日が休みなのである)、天気は晴れで絶好のアウトドアー日和である。水と日曜日の両方の休みを釣りに出かけても良いかどうかという非常に繊細な問題なので、この難問を一週間考え続けてきた防人であるが、見ると奥さんは朝からリモートの仕事でとても忙しそうである。背中越しに
「仕事忙しそうなので、僕が家いても気が散るだけだろうから、ちょっと出かけてくるわ。夕方には戻って来て夕飯は準備はしまーすッ」
と宣言して、さきもりちゃんと8時過ぎに家を出発したのだった。高速ワープ航法で中津川まで行き、そこから19号線を木曽川に沿って走り、中山道42番宿妻籠に到着。そして、その脇を流れる蘭川の空き地にさきもりちゃんを駐車したのは家を出てから一時間半後の事であった。

遊漁券を買ったコンビニの壁には、ツバメの巣があって、そこには唇のお化けのような赤ちゃんツバメが親が運んでくる餌を元気よく食していた。

妻籠・馬籠を結ぶ中山道沿いにさきもりちゃんを停めて、釣の準備をしていると大勢のトレッカー(ほぼ外国人)が脇を歩いていく。なんとまあ、人気なところなのだろうか。
中山道は東海道と並び日本の代表的街道であった。木曽山脈などの山中を抜ける中山道は太平洋の海沿いを走る東海道より40㎞ほど長いだけであるが、累積標高差で比較すると、東海道が5300mなのに対し、碓氷峠や和田峠を抱える中山道では8400mもある。また、冬場などは山間部において雪に行く手を阻まれて多くの人馬が命を落としたらしい。更には「木曽の桟(かけはし)」として有名な断崖絶壁に作られた木道も落ちたら一巻の終わりで,そういった難所が数多くある街道であった。そのため、東海道が53次になのに対して、たった40㎞しか違わない中山道には69次もの宿場町があったわけだ。こうしてみると、中山道の方が大変なような気もするが、昔の人々にとってはもっと大変な難所が存在していたのである。それは川越し(かわごし)である。江戸時代にはほとんどの川には橋が架かっていなかった。川を渡ること(徒渉と言ったりする)がいかに大変かと言うことは釣りや沢登をやっていると身に染みて感じることであるが、そうでない人にはピンとこないかもしれない。一般的には膝上くらいの水量になると恐怖を感じるのでないだろうか。黒部上之廊下帯を歩いていた若き頃の防人は徒渉が得意で、胸辺りまで水が来ても流されつつ渡り切ってしまったり(もちろんザイルで確保しての話ですよ)と言う感じであったが、久しぶりに釣りを始めた現在では、腰辺りまで来るともうビビってしまって、川の中央でモジモジ状態となり、体制崩したり、ほんと最近はヨレヨレだ。その川越しが東海道では酒匂(さかわ)川、興津川、安倍川、大井川の四つの川に存在しており(まあ、中山道でも千曲川、碓氷川の二つの川にあったようだけど)、そこを屈強な男達が担ぐ板の上に乗せてもらって渡るのである。中には悪徳な業者もいて、お客が自力で戻れない川の中央部まで来ると板をゆすり、運賃を増額させるというような嫌がらせをしていたらしい(諸説あるが、これが”ゆすり”の語源であるとも言われている)。このような川越しも通常の水量であれば問題ないが、如何に屈強な徒渉プロの男たちであっても背丈を越えた増水となると不可能なわけで、旅人は川を前に停滞を余儀なくされたわけである(だから、川越しのある場所の周囲には宿場町が発達した。また、架橋技術が発達した江戸後期でさえ、これら川越し関係業者の猛反対により日本の川には橋を架けることがなかなかできなかったようである)。この4つの川越しが存在した東海道は停滞の可能性が極めて高く、日程の不確定要素が高かった。これに対して山間部を通る中山道にはこのような不確定要素は少なく、こちらを好んで歩いた人々も多かったようだ。奈良井峠を越えた中山道は木曽川に沿うようになり、南木曽の三留野宿(みどのじゅく)から徐々に木曽川から離れ、妻籠、馬籠、中津川、恵那…を経由して、伏見、太田あたりで再び木曽川と再会するのである。そして、この三留野、妻籠、馬籠間の中山道を歩くことは以前から有名であったが、最近の外国人の多さは少し過熱気味のように感じてしまうが。

中山道を妻籠宿に向けて下流方向に歩くと、多くのトレッカーとすれ違う。「ハローッ」「ハローッ」「こんにちはッ」「ナマステ」…と色々な挨拶で忙しい。妻籠・馬籠トレイルがここまで外国の人に知られているとは!この写真はたまたま人がいない時を見計らって撮影。

妻籠宿やや上流の蘭川(あららぎ川)の渓相。開けていて、極めてキャスティングを行いやすくフライフィッシングには適している。魚影も集中力が途切れない程度なので、お昼ご飯を主目的にして、釣りを傍らでするのには名古屋からのアクセスのしやすさもあって適している。

これは18㎝くらいのアマゴちゃん。朱点が沢山あるからきっと成魚放流の個体なんだろうけど、それでも美しく可愛いと思ってしまう。

このアマゴは反転流に沿って毛バリを流していた所、イワナが出てきそうな岩の陰(マル印)のところで飛び出してきた。
駐車場所から妻籠宿方面の下流に向けて中山道を少し歩く。色々な旅人と挨拶を交わしながら入渓点を探し、河原に出て準備完了。毛バリを投げ込むこと二回目にしていきなりお魚さんが飛び出してきた。合せると心地よい手ごたえが伝わってきて「これは貰った」と思ったが、次の瞬間、急に竿が絞り込まれ、魚が走り出した。いなそうと竿の向きを変えた瞬間、躍動感あふれていた竿が急に軽くなり、針が外れた(バレた)ことを悟る。「ウーム、今のはいいサイズだった。釣り上げていればブログで自慢できたのに!」と何とも言えない気持ちになる。結局、この日は18㎝くらいの可愛い放流アマゴを釣り上げたが、その前後で、ナイスな手ごたえのお魚さん(恐らくアマゴ)が来て、竿を絞り込んでいったが、どちらもばらしてしまった。まあ、修行がまだ足りんのか、それとも釣り上げた魚をブログで自慢したいという下心を釣りの神様に見抜かれて、神が我に試練をお与えになられているのか。

蘭川ののんびりとした流れを見ながら昼飯タイムに入る。

今日は行者ニンニクの醤油漬けで牛肉を味付けて、そこに家で作って来た焼き飯を投入してなじむまで炒め続けたのだ。行者ニンニクの香りが食欲をそそるなかなかの逸品となった。この醤油漬けは、行者ニンニクを洗って、それを刻んで直に醤油に付けるだけの簡単なものだ。そのままご飯のおかずにしても良い。

中央の水筒をよく見て欲しい。『DEFENDER』のロゴが入った水筒をメルカリで見つけたので思わず買ってしまった。家でドリップしたコーヒーが中に入っていて、デイリーヤマザキで買った板チョコクロワッサンと共に食後ののんびりタイムを楽しむ。この水筒は今後の活躍が期待されるグッズである。

この妻籠宿は中山道と飯田街道(伊那谷に抜ける道)の分岐点として特に栄えたようだ。この石柱道標は飯田の皆川半四郎と言う人が、妻籠の人たちと協力して明治14年に建てたらしい。その後、明治25年に賤母新道(現在の国道19号はほぼこれに沿っているのかなあ!)が開通すると、妻籠、馬籠は開発から取り残され、当時の面影を残したまま昭和30年まで凍結保存されているような状況だった。その後、日本中が開発の波に飲み込まれ高度経済成長の景気に酔いしれているとき、妻籠の人々は「この地の景観保存こそ開発である」という理念のもと立ち上がり、現在の美しい街並みを残してくれたのである。ホントに、感謝感謝である。
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